2010年11月29日月曜日

伊達政宗 記(1) まえがき


 前記にも書きましたが、私は宮城県出身で旧奥州は仙台藩領になります。

 伊達政宗は仙台藩祖。

 安土桃山時代には「独眼竜」、江戸初期には「天下の副将軍」とまで呼ばれ、その人格・才覚は他の武将と比べると、突出する程の高い評価で戦国屈指の名武将だったことを世間では知っているのだろうか?


 後年になり明治天皇は、
「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いをはせて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである。」
 と評しているし、江戸時代後期の歴史家・儒学者である「頼 山陽」という人物の残した漢詩には、
「曹操に匹敵するほどの文武両道に秀でた英雄は、日本では政宗だけである。」
 とまで言われています。

 後で詳しく書きますが、政宗は仙台領内にてガレオン船を建造し、1613年にメキシコ・スペイン・ローマとの貿易(太平洋貿易)を企画します。そして
仙台藩士をヨーロッパへ派遣し、日本で初めて太平洋・大西洋横断を成功させ、その使節はローマ法王5世に謁見しました。
 この時代の日本人がローマ法王に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、明治6年、維新政府の岩倉使節一行が渡欧した際、既に2世紀半前に南欧に到達していた日本人たちの資料を目撃し驚嘆したそうです。
 維新政府は、欧米視察により、日本がいかに"遅れた国"であるのかを痛感し、大きな劣等感にさいなまれていました。しかし、この“日本の国際交流の先駆者”である仙台藩士の画期的な事実は、当時の日本政府を大いに勇気づけたと記録されています。




 では政宗とは一体どういう人物であったのか?
「あと10年早く生まれていれば、天下人だった。」と言う評論家もいます。


 伊達政宗は、世の中が「国盗り」という侵略によって自らを出世させる戦国時代の末期に生まれ、「天下統一」により世の中の方向性は、「泰平」へ一つにまとめられていました。その中で、政宗は自分のもっている能力を持て余したのではないだろうか?

 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康 と時代が移りかわる度にふりかかる幾度かの危機を、相手を呑む勢いで乗り切ってゆく政宗の知略と創造性は、混乱の世を生き抜く人間の活力に満ち溢れています。


 時代という強大な流れの中で、どう思考し行動に移してゆくのか。
 
 それを「伊達政宗 記」と題して、「伊達政宗」(著書 山岡荘八)をなぞりながら、読み易く・短く・分かり易くまとめ、抜粋などをしながら、ひも解いてゆこうと思います。

 どうぞ、これから始まっていく「伊達政宗 記」に目を通していって下さい。



2010年11月28日日曜日

伊達政宗 記(2) 永禄十年


 政宗は、永禄十年(一五六七)に米沢城(山形)で生まれた。
 この永禄十年とは、日本ではどういう年に当たっているであろうか?

 信長は三十四歳。美濃を岐阜と改称し、『天下布武』の下、本格的に天下統一を目指すようになっていた。二十六歳の徳川家康は、長男と信長長女との政略結婚を行い、秀吉は三十二歳、信長の武将として盛名を馳せ出した頃にあたる。

 後年政宗が、
「もう二十年早く生を享けていたら、決して彼等の風下には立つまい。」
と慨嘆させたのは、この年齢差を指すものだ。

 永禄十年にはもう、既に戦国時代は終点に差し掛かり、信長を基軸とした完全実力主義の軌道は日本に敷かれ出していたのだ。

 しかし、それは飽くまで中央の話。
 東北という北の外れでは、まだ領地の小競り合いが続いている。
 そんな中、伊達という歴史ある名家の長男として政宗が産まれ落ちるのだった。。。






※画像:信長使用 天下布武 朱印



2010年11月27日土曜日

伊達政宗 記(3) 伊達家



 伊達家は古くからの名家であり、その歴史は平安時代にまで遡る(さかのぼる)。 

 平安時代末期には、既に「伊達」という武将が存在し、鎌倉時代 源頼朝の領地図の中にも「伊達」という武将の領地が記されている。
 名に関しては、ここ数代の将軍より一字許されてさえいた。



 伊達稙宗 足利義稙
 伊達晴宗 足利義晴
 伊達輝宗 足利義輝


 伊達家 第十六代当主 輝宗(てるむね)の長男として政宗は生まれるが、「政宗」という名は伊達家中興の祖(ちゅうこうのそ)といわれる室町時代の第九代当主 政宗からあやかった名だ。
 父輝宗が込めた政宗への期待は、計り知れないものがあったようだ。

 政宗の幼名「梵天丸」(ぼんてんまる)。十一歳の元服の時に「政宗」を貰い受ける。
 以下、簡単な年表を記す。

 ■ 五歳 右目消失 病名:天然痘(てんねんとう)
 ■十一歳 元服 名を「政宗」へ
 ■十三歳 結婚(政略結婚)
 ■十六歳 初陣
 ■十八歳 家督相続 伊達家 第十七代当主となる


 この十六歳という時期での初陣は、戦国時代の中にあって本当に、本当に慎重であり適宜に当たっている時期だった。。。


※画像:伊達家 家紋 竹に雀

※余談:仙台名産「笹かまぼこ」の名前の由来は
    この家紋からきている。



2010年11月26日金曜日

伊達政宗 記(4) 平均年齢



 戦国時代、初陣の平均年齢は十五歳位が習慣だった。
 信長や信玄は一三・四歳で戦場へ連れ出され、また家康のように十六歳で初陣した武将もいる。




 あまり早くに戦場を知った者に、生涯をよく大成し終わりを全うした者は少なかった。
 それは戦場の持っている「命」の火花と「勝利・成功」という美酒の味を知り、そこへ陶酔してしまうからだ。


 無責任の若者にとって、その誘惑は面白く好戦的な人格のみが育ち出し、そして求め続け、ついにその戦場で落命しなければならない運命へ、自ら突き進んで行ってしまうように思われる。

 その意味では、政宗の十六歳の初陣はまことに慎重適宜と言えるのだ。
 自分に自惚れる(うぬぼれる)ほど早くもなく、そして遅すぎたと言う程でもない。


 この初陣をハッキリと勝利で飾った政宗は、十八歳で家督を継ぎいよいよ中央の天下を狙うべく、十九歳より戦を続けざまにしていくのだが、この十九歳になった一五八五年という年は、本能寺で信長が自刃した年より三年が経っている年にあたっている。

 だが、まだ天下は秀吉・家康・北条の誰のモノとも決まっておらず、身の程知らずの小心者が全国各地で妄動の渦の中、ただ右往左往していた時期だった。。。





2010年11月25日木曜日

伊達政宗 記(5) 虹の架け橋



 奥羽(東北)はまだ小さな武将同士での、領地争いが続いていた。
 十九歳の政宗が睨んでいるのは、領地の拡大ではなく天下だった。
 奥羽での小競り合いなどに一生を費やすのは真っ平で、天下を治めるところへ立ちたかったのだ。



 政宗の奥羽平定への緒戦は、実に見事という他はなかった。

 敵武将には内通により、
 「天下平定へ赴く為、精鋭を育成しながら南下途中である。中央へ連れて行ける程の武将がいれば、天下を取り次第、一国を与えて乱世を平定してゆくつもりである。周辺にはもはや、内々でお味方を申し出ている者はたんとある。」
 と知らせておき、断ればと問われれば
 「一蹴りして押し通る。」
 と返答した。
 伊達勢は強かった。政宗は初陣いらい敗戦という敗戦を期していなかったのだ。



 それは現今でいうところの、催眠術に近いかもしれない。
 こうした催眠術師のような魅力は、もちろん織田信長にもあったし、秀吉や家康にもあった。
 自身の描く一つのビジョンの中へ、相手をコロリと落とし込む。これが英雄の条件の一つ・・・ とまでは言わないものの、こういった味をもった人物は、当今ではよく経営者などに見られるようだ。

 政宗の描く壮大な天下への虹の架け橋は、今まで「天下」からは程遠かった東北人の胸の中へ、夢の架け橋として架けられていったのだった。。。




2010年11月24日水曜日

伊達政宗 記(6) 殉死(じゅんし)



 政宗は十九歳のこの年に、父輝宗(てるむね)を亡くしている。

 敵武将に拉致され、連行途中に亡くなってしまったのだ。
 良き理解者であった父を失い、孤独の中当主として立っている政宗へ追い打ちを掛けるように、父輝宗の重臣達が殉死(※下記にて解説)してしまった。

 当主とは言えまだ十九歳の政宗。父親とその重臣達の存在は、今の政宗にとって無くてはならない家臣統一の巨柱であり、寄り掛かれる唯一の巨大な支えだった。それがあっさりと、政宗を見捨ててこの世から去ってしまったのだ。
 奥羽平定へ動き出した矢先の出来事だった。



 翌年の正月、家康からの使者により秀吉・家康の対立は和議で終わったこと知らされる。家康の男子を秀吉の養子として、人質に出すことでまとめられたのだ。
 そして、秀吉の四国征伐が終わろうとしていた。それは、残す九州・関東・奥羽征伐の意味を含んでおり、中央では天下統一へ向けて本格的に動き出していた。

 政宗の中にあった奥羽平定、そして天下統一の計画はここで大きく狂い始めるのだった。。。




※殉死(じゅんし):主君を追って家臣が自刃し死ぬこと。

2010年11月23日火曜日

伊達政宗 記(7) 二十歳


 秀吉・家康が協定したことは、関東征伐の意味を含んでおり、関東の北条氏政(ほうじょう うじまさ)は、関東を固め直して待ち受ける形を作り始める。

 すると北関東と南東北の武将は、北より伊達・南より北条と南北より敵を受ける形になるのだ。当然、北の政宗だけへ手を廻していられない状態となってゆく。

 これに乗じて政宗は、米沢城より南に位置する難攻不落と言われた二本松城を、城囲いだけで手に入れる
。だが、まだ政宗は三方敵に囲まれている状態だった。
 全てを賭けてぶつかって行けば、難なく一年以内にも踏み潰せる相手ではあったが、政宗の目的は北などにはなく南にあるのだ。


 中央では既に秀吉が、世界一と言われる大阪城を築き、関白に任じられていた。
 秀吉の天下統一が着実に進められてゆく。

 武将が関白に任じられたという事は、領地を侵略するという戦国的経営が封じられた事を意味する。
 戦国人として知己戦略を自得しながら、一方で中央の推移を敏感に感じている政宗の焦りは募っていく。この翌年に、「大崎攻め」が開始され一端北との戦に終点を打ち、南への進出を開始していくのだ。


 この二十歳から二十二歳までの二年間は、後の人間政宗を大きく伸ばす試練の時期に当たっている。父輝宗や多くの重臣を失うという試練にすら、ひた向き合うこの若者は、この二年間を乗り越え更に大きく伸びようと立ち向かってゆくのだった。。。


※画像:二本松城 難攻不落の山城として築かれている




※画像:二本松城 そびえ立つ石垣の様子



2010年11月22日月曜日

伊達政宗 記(8) 奥州覇王


 四国征伐に続き、関白秀吉の九州征伐は終わった。

 そして中央では、小田原征伐(関東:北条氏政)の準備が進められている。その後に、東北へ徳川家康をも懐柔した、怪物秀吉がやってくる日は迫っているのだった。

 政宗はその時までには、何としても会津・黒川城を盗り水戸(茨城県)まで進出しておきたいと考えていた。それは関白秀吉が小田原征伐へ来た際に、秀吉と対等の立場で、天下の経営に口を出せる実力を確保しておきたかったからだ。


 政宗の黒川城攻めは、戦国史上稀に見る快勝だったといわれている。
 まず、先年の約束(※「虹の架け橋」下記参照)として一部の敵武将を招き込み、黒川城周辺を抱き込んでゆく。そこから更に簡単な戦と内通により勢力を拡大していき、遂には敵将が黒川城を空け渡すことに成功させたのだ。

 黒川城が落ちると、もう他の奥羽の武将の運命は決まってくる。次々と名のある武将までもが、政宗傘下に下り「稀代の英雄」と呼ばれるようにまでなっている。

 それもその筈。

 この頃の政宗の領地は、東は福島県東部より西は新潟県中部、南は福島県南部より北は秋田・山形県一帯、そして宮城県・岩手県の一部までも領地としていたのだ。石高にして二百数十万石。しかも、年齢はたったの二十三歳。



 当然の事だが、関白秀吉からは黒川城侵略の問責がやってくる。即刻の上洛命令を受けることになるのだ。そしてもう1つ、翌年三月の小田原征伐の催促状が届いた。


 遂に今年の政宗の敵は、関白秀吉となっていたのだった。。。



※画像:黒川城(別名:鶴ヶ城・会津若松城)
※余談:この城は、幕末の会津藩士「白虎隊」がいた城。




伊達政宗 記(9) 弟 伊達小次郎 斬殺



 秀吉が関白になったということは、日本国中全てが秀吉傘下に入ったことを意味する。

 北条氏政(ほうじょう うじまさ)が小田原征伐と名して征伐されるのも、これを頑なに拒否したからなのだ。政宗の場合そこへきて侵略している。秀吉からは上洛命令すら来ていた。小田原参陣の催促も相次いで届いている。


 実は父輝宗(てるむね)を拉致したのは、この黒川城の敵将だったので、それを口実に上洛しようとはしない。そして、小田原参陣に関しては積雪のため参陣遅延していると答えていた。

 そんな事で秀吉が納得するはずもなく、怒りながらも既に、この小癪(こしゃく)な政宗征伐を水面下で進めていた。伊達傘下の反政宗の武将と内通していたのだ。


 これは秀吉の常勝手段であり、敵を内部分割させて手も付けられない状態の時に、大軍勢にて取り囲みそのまま和議に持ち込み降城させるのだ。
 このように自軍の致命傷を避け、しかも有力な地方の武将を亡くさず懐柔しながら、怪物秀吉は四国・九州を征伐し、破竹の勢いで天下統一をここまで押し進めてきたのだった。


 この場合、政宗の弟 伊達小次郎をもって政宗を毒殺し、現在政宗傘下の武将は反旗を一気に翻し(ひるがえし)伊達勢を蹴散らし、各々が奥羽にて領地をもたされ自立させるという内通だった。


 それで、政宗は弟 小次郎を殺した。

 政宗は毒入りの料理に気付き、その場にいた小次郎を謀反の主人物と知っており、その場で斬殺したと伝えられている。このとき政宗はまだ二十四歳、そして更に若い弟 小次郎。
 これは源頼朝と義経の関係によく似ている。
 実の兄弟とはいえ、現実を理解するには余りにも若い弟だった。



 この少し前に当たる三月一日、関白秀吉は小田原征伐へ京都を発している。
 今や四国・九州を征伐した秀吉の軍勢は、前古未曾有(ぜんこみぞう)の大勢力となっていたのだ。秀吉は小田原征伐後に政宗征伐をするため、いま、小田原目指して北上しているのだった。。。




2010年11月21日日曜日

伊達政宗 記(10) 秀吉戦略 1 遠回り


 三月十三日、またしても政宗のもとに小田原参陣の催促がやってきた。

 命令を受けた武将の軍勢は、二月中に殆ど行動を起こし、ひたひたと小田原めざして結集し出していたのだ。

   二月七日 蒲生氏郷(がもう うじさと)が伊勢 松坂城を出発
   二月十日 徳川家康が駿府を出発
          前田利家が金沢を出発
          上杉景勝が春日山城を出発
  二月二十日 豊臣秀次が近江を出発
  二月二五日 細川忠興が丹後を出発

 上記の他に、織田信雄、黒田如水、羽柴秀勝、宇喜多秀家、織田信包、小早川隆景、吉川広家、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、長谷川秀一、大谷吉隆、石川数正、増田長盛、金森長近、筒井定次、生駒親正、蜂須賀家政、大友吉統、島津久保、森忠政。
 
 陸上軍だけではなく、さらに水軍では、

   四国 長宗我部元親、伊勢 九鬼嘉隆をはじめ、加藤嘉明、脇坂安治。など、続々と大船団も集結しだしている。

 今小田原めざして動いている軍兵の総数は、文字どおり百万の大動員だった。

 したがって、この大動員令に従う気のない者は、日本国中、伊達政宗ただ一人と言っても決して言い過ぎではないだろう。
 口先では堂々と、「小田原陣の後詰め(ごづめ)仕る(つかまつる)」
 などと言っていながら、出発する気配はなく、その反対に周囲の武将を攻めだした。こうして四囲を怒らせて敵対させ、征伐遅参と大軍が小田原へ割けない理由をつくったのだ。

 秀吉は小田原征伐のあとは、そのまま北上して政宗の首を討つ気でいた。そういう豪語が伊達家の中にも聞え渡ってさえいる。


 伊達家が動揺しだす中、当の政宗は初めの通告どおり参陣日時を四月六日としていたのを、毒のせいにして十五日に出発し、一度引き返し再び出発したのは五月九日。
 今度は何故か、米沢、越後、信濃を迂回して、小田原へ着いたのは、なんと!六月五日。
 しかも、主力は会津に残したまま、到着した軍勢はたったの百騎だったのだ。

 政宗の一行が箱根に着いたとき、小田原征伐も終わりに差しかかっており、落城をまつばかり。もちろん秀吉はカンカンになって、謁見(えっけん)すらも許そうとはしない。

 いったいどうして政宗はここまでして秀吉を敵に回しているのだろうか?
 それは、秀吉という天下人の器量を見抜くため、常人では考えもしない計略を引下げ、わざわざ百騎で遅参していたのだった。。。





画像:小田原城



2010年11月20日土曜日

伊達政宗 記(11) 秀吉戦略 2 奥羽平定


 秀吉は激怒すると共に呆れていた。

 戦場近くの兵の動きは、各所から秀吉に報告されている。
 小田原征伐も終わりかけになり、のこのことやって来て、しかも軍勢はたった百騎。
 この戦は長滞陣に入っている。精神的にも身体的にもくたくたな状態で、やっと峠を越え安堵し始めたときだったのだ。

 そこへ来て、もし政宗が早く到着していたら? あるいは数千騎という大軍勢で到着していたら? 当然このような結果にはならなかったと推測される。
 もし張り詰めた戦場だったなら、感情的な判断によりその場で即斬首となっていただろう。
 そしてもし大軍勢での移動なら、兵力を温存して南下する政宗へ「反逆」という疑惑をかけられたとしても不思議ではなかったのだ。

 翌々日、秀吉は
箱根にいる政宗のもとへ上使7人を送っている。

 政宗という人物の人間視察を兼ねたこの一行は、前例のない程ものものしいものとなった。
  施薬院 全宗(やくいん ぜんそう)(秀吉の外務大臣格)
  前田玄以(秀吉の外務大臣格)(五大老)
  色部右兵衛入道是常(しきぶうひょうえにゅうどう)
  稲葉是上坊(いなばのぜじょうぼう)
  浅野長政(秀吉の五奉行 筆頭)
  前田利家(秀吉の五大老)
  前田利長

 この側近の全智をあつめた顔ぶれは、世間がすくみ上がるほどの大陣容だった。

 首が危ない当の政宗の言い訳は、実に大胆でありながらも道筋が通り過ぎていた。これでは皆が納得せざるえなかったのだ。

 「黒川城は父輝宗の敵討ち、そして出発前の戦については、小田原征伐後に奥羽平定をする際の前戦。混乱する奥羽を鎮静させ、さらに秀吉殿下を無事に迎えるため周囲を偵察しながら南下してきた。」
 まるで全てが、関白の為に戦っている様な言い方だった。
 これには長政も利家も舌を巻いた筈だろう。
 (こやつ並々ならぬ大物よ!)

 長政も利家もすでに五十歳を超えている。まだ二十四歳の政宗が、このとき天下を狙っていることまでは、流石に見抜けなかった。二周り以上も歳の離れた、この大胆かつ豪快な若者に対して好意すら持ちだしているのだ。

 これで政宗の領地も安堵し、首も無事ですむ。それは政宗を生かしたまま使おうと思ったからだ。秀吉の目にも、長政・利家の目にも「使える人物」として映った。そして天下人の器量を見抜いた政宗の目には、秀吉は「自分を評価する人物」と映っていたのだ。
 

 八月九日、秀吉が遂に奥羽へ入る。そして一斉に行われた奥州仕置により、政宗は黒川城(会津領)と他の所領も没収され、領地は72万石へ減った。ここで秀吉の「天下統一」の総仕上げは完了したことになる。

 このとき、秀吉が政宗へ難題を吹きかけてゆく。政宗の妻を京へ人質として連れて帰ると言いだすのだ。妻の愛姫(めごひめ)は、これを聞き泣き崩れていた。
 秀吉の女癖は、殊のほか悪いと評判だったからだ。。。





画像:仙台市博物館所蔵 伊達 政宗 胸像



2010年11月19日金曜日

伊達政宗 記(12) 秀吉戦略 3 妻の人質


 関白秀吉の奥州仕置により、奥羽へは中央の武将も配置された。
 そして関東へは徳川家康が入る。

 なぜ中央の武将が東北へ配置されるのであろうか?
 それは奥羽の覇者政宗と、関東に入る家康を牽制していく番犬となるためだった。
 小田原征伐に到着しただけの政宗は、膨大な兵力を無傷のまま温存してあったからだ。

 ここで、政宗より妻を人質とし東西へ遠く引離そうとする。秀吉は、二十四歳の夫婦ならば当然「人質には他の者を!」と政宗が申し出てくるものと計算していた。こうして政宗を、権力の下へ屈服させていくつもりだったのだ。
 ところが、政宗はあっさりと二つの返事で引き受けている。
 「政宗はまだ二十四歳。三十歳までは妻子を忘れて、みっちりと働かねばならぬ。天下一安全な殿下のもとへお預けしたい。」
 政宗の思案は、世間とは少し違うようだ。

 政宗は、秀吉の一癖もった家臣をそのまま中央へ残しておくと、後に親戚・一族に結集され自分の立場が危うくなるのを恐れて、奥羽(東北)へ配置したと読んでいる。
 そうなると、意味は全くの逆になり、むしろ政宗と家康がその番犬となるのだ。政宗から人質を捕るということが、その一つの答えを導きだす。
 不安定な奥羽で、当然これから争いは起こってゆくだろう。秀吉は既に、その争いの種すらまいているのだ。その中で政宗が生き残ると見通していなければ、人質を捕る必要はない。


 政宗は、そんな奥羽から中央へ抜け出ていくために、妻の愛姫(めごひめ)を人質としてではなく、先陣として一人京へ攻め上らせるつもりだった。いずれ中央へ屋敷を築くための、いわば足掛りだ。これを聞き、妻愛姫の中でもまた良人の不屈の根性が湧くのだった。

 政宗の妻愛姫は、陸奥(みちのく)の政宗が日本の政宗として伸びていくため、「みちのく」の女子の強さを中央へ見せるつもりで、独り京へ人質となってゆくのだった。。。


※余談:この少し後の話になるが、中央にいる愛姫は、
政宗にとって女性外交官的な役割を果たすとこになる。
京の情勢を奥羽の政宗に知らせ、政宗を生涯よく「内助の功
として支えていたと伝えられている。




2010年11月18日木曜日

伊達政宗 記(13) 秀吉戦略 4 蒲生氏郷


 奥州仕置により、現在の宮城県北部と岩手県南部一帯(三十万石)には新領主として中央の武将・木村氏が配置された。

 これは、父輝宗(てるむね)の代より伊達家に従属していた大崎義隆(おおさき よしたか)の旧領地であり、新領主に対して旧家臣団らの強い反発があった。
 十月十六日、その旧家臣が、領民と共に蜂起して岩手沢城(いわでやまじょう)を占拠したのを皮切りに、佐沼城(さぬまじょう)登米城(とめじょう)そして古川城(ふるかわじょう)へと一揆は領内全土へと拡大してゆくのだ。
 そしてそれは、秋田県にも山形県にも拡大してゆく。
 十一月十六日、秀吉はこの一揆鎮静の命を、政宗と蒲生氏郷(がもう うじさと)へと下した。
 だが、政宗と氏郷はこの「葛西大崎一揆」を鎮静しながらも、功名争いという形で対峙してゆくのだった。


 蒲生氏郷はこの度の奥州仕置により、政宗より没収した黒川城と会津 四十二万石を与えられた中央の武将。年齢は政宗より十一歳年上の三十五歳。

 この織田信長の婿は、戦国武将中ではまず抜群の秀才といえる。

 信長が彼の才能にほれて、十二歳の姫を与え近江の日野の城主に取り立てたのが十四歳のとき。
 頭脳明瞭、放胆なところがあって知略に富み、それに戦上手。信長が本能寺に倒れてからは、秀吉に従って明智を攻め、更に「小牧・長久手の戦い」では家康と対峙し、そして伊勢に松坂城を築城。九州征伐では勇名をとどろかせ、小田原征伐にも従軍している。
 つまり、もしこの氏郷を中央の近江や伊勢へ残しておけば、織田の旧臣や親族とともに決起され秀吉の立場が危うくなる恐れが十二分にあるだ。


 秀吉はこの時期の政治政策に、「刀狩り」と「太閤検地」を行っている。
 農民より刀を取上げ、三百六十坪(歩)を一段歩としてある日本伝来の段別性(だんべつせい)を、三百坪に改変してしまったのだ。
 その分年貢の負担が増すことになる。当然その不満は一揆という形を作り出し、その中で領主は、政策を施し領民を治めそして土地を治めてゆかなければいけなくなるのだ。

 この秀吉の政治政策には、一揆を揺動し、秀吉が直接手を下さずに天下統一後の武将から、領主として相応しい(ふさわしい)才覚をもった、器量人と無器量人を選別してゆくという意味が、密かに隠されていたのだった。。。



※画像:豊臣秀吉所用 馬藺後立付兜(ばりんうしろだてつきかぶと)

九州征伐の際、豊臣秀吉着用。



2010年11月17日水曜日

伊達政宗 記(14) 秀吉戦略 5 黄金の十字架


 「葛西大崎一揆」鎮静の最中、それは氏郷(うじさと)より秀吉の下へ届けられた。
 「伊達政宗に異心あり!!」
 何と政宗には、この「葛西大崎一揆」を裏で扇動していたとの疑惑がかかり、旧伊達家臣等との内通の証拠とされる密書までもが見つかり秀吉へと提出されていたのだ。
 そして、政宗には秀吉より即刻の上洛命令が下り、その旨を釈明せよと命じてきた。


 政宗は、夫人の愛姫(めごひめ)を京へ人質に差出した時から、秀吉を恐れる気は全く無くしていた。
 (-----関白の知略の程度は、決して恐ろしいほどのものではない)
 この時の政宗は、全ての面に置いて秀吉よりも更に一枚上手だったと言ってもいいだろう。
 秀吉の政治政策を明確に理解し、その一揆に乗じて何とか上京のきっかけを作り、中央進出を遂げようとその機会を狙っていたのだ。それを秀吉に報告し、上洛の機会を与えてくれる役者は、近辺には氏郷より他にはいない。功名争いの中で、氏郷はその役割をしっかりと果たした。
 その野心も見抜けず、氏郷は報告し秀吉は上洛を命じてきたのだ。しかも政宗は、失った領地回復の手段として、一揆鎮圧の功績を以て葛西・大崎旧領を獲得しようとまで企んでいた。さらに氏郷に隙あらば、ここで一揆鎮圧の戦に乗じて討取るつもりでさえいた。
 氏郷が織田信長に惚れられた秀才ならば、伊達政宗は、この険しい奥羽の自然と虎哉禅師に鍛え抜かれた逸材中の逸材なのだ。

 政宗にとっては、全てが希望の筋書きどおりに進展していた。  秀吉の朱印状に続いて、更に家康からも正月五日付で上洛をすすめてきていた。

 京では噂が波動を盛り上げている。
 「政宗夫人はニセ者であった。」などや、「一揆の際、政宗勢は空砲であった」とか「一揆勢の城には伊達の旗が上っていた。」など俄然広がっていった。


 「関白に楯突く奥州の独眼竜も、さすがに今度ばかりは生きた空はあるまい・・・。」


 上洛命令を受けた当の政宗は、正月の行事を淡々と進めてゆく。機熟の判断には政宗独特のカンがあるようだ。政宗は、作らせておいた金箔塗りの磷付台(はりつけだい)を居間に置き、それを眺めながら次なる風雲を楽しみに待っているのだった。
 そして正月十五日、用意していた黄金の十字架を担がせて、京へ向けて米沢を出発したのだった。。。




2010年11月16日火曜日

伊達政宗 記(15) 秀吉戦略 6 小人


 石田三成は『小人』と呼ばれた。
 この小柄な体格の大陰謀家は、あの天下分目といわれた「関ヶ原の戦い」を引き起こす張本人なのだが、それはもう少し後の話になる。


 豪華絢爛(ごうかけんらん)な黄金の磷付台を担ぎながらという、政宗の人を喰った上洛に、秀吉は激怒以上に唖然としていた。
 しかも派手なのは磷付台だけではなく、それを担ぐ小者の衣装は真っ赤な段染めの揃いの法被(はっぴ)で、馬鎧から太刀まや毛槍まで、わざわざ揃えさせたものだったのだ。

 (あの小僧、ことごとくわしの好みを知っていくさる!)

 生涯、奇抜さと豪華さと派手さを愛した、この秀吉という武将は、大胆で豪快なこの若者に、過去の自分と重ね合わせるような愛着さをもっていた。
 だが、一揆扇動の疑惑が掛かる政宗をこのまま京に入れる訳にはいかず、途中で叩き斬るつもりで石田三成を引き連れ、尾張(愛知)の清洲城へ入っていくのだった。

 (あやつ今度はどのような面構えで出てくるか?)
 秀吉はどこか愉しげさえ感じていたのではないだろうか、、、。


 実は、この頃秀吉は、少なからず人生的な打撃にあい、小田原征伐の頃の元気をすっかり無くしていた。
 何よりも一粒種の鶴松丸がひ弱だったのだ。三歳になって正月を迎えていながら、三日から風邪で咽喉を腫らして、なかなか熱も下がらない。
 その最中に、今度は、弟の大納言秀長が五十一歳で亡くなってしまったのだ。正月の二十三日だった。
 この羽柴秀長の死は、秀吉の生涯に拭いきれない程の大きな打撃を残すことになる。
 実際に今のこの秀吉人気を支える陰の大番頭は、弟秀長だったのだ。いや、秀長と千利休が、左右にあって、情報の整理やら、人事の相談やらを全て務めていたのだった。

 なので、もしこうした打撃がなかったのなら、伊達政宗への風当りはもっと強烈なモノになっていたに違いない。


 二月二十七日、政宗が尾張へ入ると、とある小男が旅の前途をさえぎった。そうこの男が、石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)。
 そして、そのまま清洲城へと案内されてゆく。
 このとき政宗は、奥州仕置の際、秀吉から拝領された卯の花おどしの大鎧に熊毛の兜を着用し、桃山時代特有の華麗さを見せながら上洛していたのだった。。。


画像:豊臣秀吉所用 伊達政宗拝領

銀伊予札白糸威胴丸具足
(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)
仙台市博物館所蔵 重要文化財



2010年11月15日月曜日

伊達政宗 記(16) 秀吉戦略 7 鶺鴒(セキレイ)の眼



 尾張(愛知) 清洲城。
 秀吉と三成が広間の上段へ出てゆくと、政宗は広間の隅でイビキをかいて眠りこけていた。あわてて三成が近寄り、揺り起こすのと同時に秀吉の怒号が響きわたる。
 カッ!と隻眼を見開いた政宗は、今のはイビキではなく「竜の呼吸」であって決して眠ってはいない旨を説明すると、秀吉は今にも吹出しそうな笑いを必死に堪えながら、問責は始まっていった。

 例の一揆扇動の密書を政宗の前へ出し、秀吉は上半身を乗り出して問詰める。
 筆跡も花押も寸分狂わぬこの密書を、政宗は偽の密書だと言い、「鶺鴒の眼」(※下記にて解説)と言われる針の穴が空いてないことを説明する。全くもって臭いこの説明だが、一応の言い訳の筋は立ってゆくのだ。
 よって政宗には何の落度もなく、その歯痒さがゆえ堂々と磷付台をこしらえて、常に生命を危険にさらす政宗の『死の覚悟』を世に知らしめながら上洛してきたことになる。その釈明と引き換えに、政宗は、京の聚楽第(じゅらくだい)への屋敷建造の許可を得るのだ。

 「針の穴を通って生命が助かる・・・あのここな、伊達めが。」
 そこまで言って、秀吉は首をすくめて笑い出していた。 

 今日まで、ついにわからないのは、政宗は初めからこうした場合にそなえて、書状へ針の穴を空けてあったのかどうか? それは、政宗が白状しない限り永遠に真実は確認できないことではあるが。
 秀吉は半信半疑なのだが、それが、政宗の詐欺であってもよいと考えている。これだけの才覚を、殺さず生かしておいて活用すべきだと考えるところに、秀吉という人物の味があった。

 すべては政宗の計算どおり・・・・・。

 こうして、三月二日には従四位下に叙せられ、越前守を兼ねて羽柴の姓を許された。
 したがって、天正十九年(一五九二)という年は、羽柴越前守 政宗にとってその地位と実力が、ようやく安定していった開運の年といってよく、その反対に不出世の大英雄と目されて来た豊臣秀吉にとっては、その運命は絶頂を越えて、いよいよ晩年の凋落期(ちょうらくき)に入っていく年だった。

 京の新邸で、妻愛姫(めごひめ)と過ごす政宗は、五月二十日に米沢に帰着しているのだが、在京中にはっきりと、終わっていたと思っていた「戦国」が、又脈々と甦って来ているという驚きと期待を、受取ることになる。

 この屋敷建造あたりより、伊達という名前が、北の外れの田舎武将から天下へその名を知られる全国規模の武将へ飛翔していったと言えるだろう。。。




画像:伊達政宗自筆書状による花押「鶺鴒」
仙台市博物館所蔵 伊達家寄贈文化財

※鶺鴒の眼:伊達政宗は、花押をセキレイという鳥の形に見えるようにしたためていた。それに、偽造防止のため、本物にだけ眼の部分に針で小さな穴を空けてあると釈明している。

伊達政宗の文章は三〇〇〇点以上確認されており、その内、政宗直筆の書状は一〇〇〇点を超える。しかし、その中に針の穴が空いている書状は一点も見つかっていない。




2010年11月14日日曜日

伊達政宗 記(17) 秀吉戦略 8 側近 三成



 秀吉の運命は、凋落期(ちょうらくき)へ入ってゆく。
 二月二十八日、あの側近だった千利休を切腹させてしまったのだ。
 弟秀長につづき千利休までも失ってしまった。

 なぜ秀吉は、武将でもない利休を切腹させてしまったのか?

 政宗の考えは、当然その理不尽の元へ繋がってゆく。
 利休があって都合の悪い人物。。。それは秀長のあとに座って、側近第一の権臣の座を狙う石田三成へと辿り着くのだ。
 三成は、秀吉の窮臣ながら、しかし、彼がほんとうに側近の権勢をほしいままにしたのは、秀長の歿後からだった。清洲城へ、秀吉へ引き連れられてきたことでも、それは証明できる。
 秀吉は、病弱な三歳の実子しか持っていない。ここで巧妙にこの父子に取り入ってあれば、直接天下は取れなくても、その子を踊らせる黒幕にはなってゆけるのだ。
 そうなれば、茶だの禅だのと、見えない物で秀吉の心を縛る利休が、甚だ邪魔な存在になってゆくのだった。

 政宗は、京にてこうした陰謀じみた思考の入り込む余地が、まだ天下には残されていることを感じる。
 (まだ天下は、ひっくり返らぬものでもない・・・)
 いや、それよりも更に政宗をおどろかせたことがあった。
 それは、一応日本を平定した秀吉が、朝鮮半島から明国へ攻め入るという事実を知ったことだった。
 利休が生きていたなら、当然秀吉を諌めただろうが、利休はもうこの世にいない。
 この出兵もまた、新たな秀吉の側近、三成の仕業だった。

 人は、自分が出世した際には、その肩書・才覚を周囲に知らしめるため、とにかく新しく大きな仕事をしようとするようだ。

 そうしている内に、奥羽では「葛西大崎一揆」がぶり返していた。
 そうなると、もはや京で安閑としてなどいられず、さっさと奥羽の鎮静にかからねば、朝鮮どころか、足下に火がつくことになってゆく。
 政宗は、早速五月初めに京を発ち二十日に米沢へ帰着し、ほとんどの精鋭を総動員させ、二万一千騎という大軍勢にて一揆鎮静を始めるのだった。

 八月二十一日、秀吉の命により増援として、中納言秀次をはじめ、徳川家康、浅野長政、石田三成が二本松へ到着する。
 一揆が完全に治まったのは九月八日だから、伊達政宗の働きによるところが大きかったのだ。
 ところが、その伊達勢の決死の実績にもかかわらず、秀吉の命令として、石田三成がひっさげてきた奥羽の再編成案は、米沢を蒲生氏郷へ与え、政宗へは葛西・大崎領を与えるという転封だった。
 これは、一見恩賞のようであって、実に底意地のわるい左還(させん)でもある。
 (あの小人め、ひねりつぶつしてくれようか!)
 むらむらと沸き立つ反逆心を抑えているところへ、家康より使者が来る。
 今、奥羽へ出向いている家康が、しきりに政宗に、会いたがっていた。。。





2010年11月13日土曜日

伊達政宗 記(18) 徳川家康 1 江戸と宮城


 米沢領は七十二万石だった。
 それが、葛西大崎領を概算すると五十八万石にしかならない。
 一揆鎮静という、あれだけの大仕事をしながら、十四万石減らされることになるのだ。
 (---伊達氏が、祖父発祥の土地と城を引渡して、いったいどうしろと。)
 むらむらと、沸き立つ反逆心を抑えている政宗へ、当時、岩手沢城(宮城)まで出て来ていた徳川家康より使者がみえた。
 実は、この左遷(させん)は既に徳川家康が喰っている。祖父代々、辛苦を重ねて築き上げた駿河(静岡)の土地から、荒漠たる原野の関東へ移されていたのだ。

 この政宗と家康の出会いは、政宗へ大きな影響をのこすことになる。

 家康から、政宗への言葉は「この度のご加封、いよいよ芽出度うござる。」という賀詞だった。
 政宗はムッとし聴き返す。
 すると、政宗の思案とは異なり、今回の奥州編成案は、三成の小細工ではなく、家康の措置だというのだ。
 家康は、江戸へ移されたことを、神仏が与えてくれたご機会だといい、それは政宗へも当てはまると言う。

 江戸と同様に、この宮城は中央へ広い平野である大崎耕地をもち、右へ太平洋が開け、左へは山もある。海・山・里と、富は無尽蔵。しかも、葛西には金山もあった。
 奥羽の中央へ縦に連なる奥羽山脈は、その右に位置する宮城を積雪から守り、しかも検地の届いていないこの外れた土地には、まだ新田開発という伸びが、随分と残されているのだった。
 事実、一反三百六十坪の換算では五十八万石だったが、三百坪で換算すると六十七万石にまで上昇する。
 家康は、江戸を二百数十万石くらいには伸ばせるといい、宮城ならば百二十万石くらいには即伸びる土地だというのだ。

 政宗は黙りながらも、頭の中のそろばんが、少しづつ動き出す。
 「すると徳川殿は、わざわざ政宗へ新領地を与えてくだされたか?」
 「おことはただの竜などではなく、何かある度に走りだそう。
  氏郷もまた獣。そうなると、なかなか奥羽は納まらぬ道理。」
 (家康の魂胆はここにある。奥州が納まらねば、落ち着いて関東の経営などにはあたれない。)
 少し唸りながら、政宗また黙っている。
 (---先は長いのだ。十年ここで腰を据えて、人生の計画を練り直してみるか。)

 この後、朝鮮出兵が待ち受けている。そして何よりも、この少し前、秀吉が熱愛していた一粒種の鶴松丸が、八月五日、ついに三歳のはかない生涯の幕を閉じていた。
 秀吉の乱政と、その裏で糸を引く三成。
 氏郷などと、へたな"いざこざ"を起こしてなどいられず、目の前の強大な時の流れが、渦を巻いて待っているのだ。

 こうして、政宗の移転は決まり、家康も、三成も、長政も、秀次も奥羽から去っていった。
 岩手沢(いわでやま)を、岩出山と改称し、主城を岩出山城とした政宗は、町民を町ごと移転させ町割りを始める。
 そして間もなく、日本中の全ての武将が警戒していた朝鮮出兵の命令が届いた。
 「来年早々大軍を引きつれて、明国征伐に出発する。よって軍兵一千五百を引きつれ、即刻上洛せよ。」
 正月、政宗は呆然としていた。。。
 移転は終わらず、出陣の用意、、、そこへ奥羽の積雪。。。
 しかも、移転する家臣の数は、数千などという数ではないのだ。町割りもろくに終わっていない。。。
 政宗ならずとも、呆れるの当然だった。。。


画像:岩出山城跡
政宗は十年間この城を居城としている。
そして、仙台城へ移転後は一国一城令により
城ではなく「要害屋敷」として存続。



2010年11月12日金曜日

伊達政宗 記(19) 徳川家康 2 巨大な丸太


 秀吉と家康の手応えは、きわ立って異なっていた。

 一方は鍛えられた鋼のように、叩けばキンキン音がする。
 ところが、家康は山腹に投げ出された皮つきの丸太の感じなのだ。
 それも小さな丸太ではなく、全くもって掴めない巨木のような感じだった。
 分厚い皮に覆われ、中身の検討がまるでつかない。
 若いおりは相当な乱暴者だったと聞いている。
 家康は、この度、宮城へは約四十日間滞在しているのだが、政宗を迎える岩出山城を、家康の手で更なる一大要塞へと造築していたのだ。


 政宗の性格は、家康よりも秀吉に近い感じだった。

 秀吉と向かい合うと不思議に闘志が誘発され、知恵が次々と沸き上がってくるのだが、家康の前ではそれが反対だった。全身が痒く(かゆく)なってくる想いがする。
 その闘志が打つかり合おうとして、どこかで、歯切れ悪く反れていってしまうのだ。
 一方では才覚抜群と評価され、もう一方では青二才と侮辱されているような気がしてくる。

 それにしても、こうして結ばれた家康と政宗の生涯は、まことに奇妙なものだった。
 政宗は、生涯家康には心服しなかった。いや、秀吉に対しても同じことで、他人に心服出来ない自尊心をもって生まれた竜だったのだ。その意味でも、家康のこの移転案は的を得ている。
 後日、政宗の長女の五郎八姫(いろはひめ)が家康の六男忠輝(ただてる)に嫁いだのも、家康が死に当たって、後事を政宗へ託したのも、いわば、この奇妙な認め合いと不服従の、屈折限りない延長だったといってもいいのだ。

 正月五日、政宗は一千五百という軍兵を、倍の三千で岩出山を出発する。
 これには、政宗の知略が、ふんだんに盛りこまれていた。
 この勝算も曖昧な明国征伐は、どう考えても正気の沙汰ではない。
 政宗は、そこへ三千という倍の軍勢にて早々に参陣し、先陣を申し出る。しかも、その軍装を奇想天外な軍装にて上洛する。
 もし、一千五百に満たない軍勢であったり、遅参した場合には、秀吉より先陣を突きつけられることになるだろう。それを避けるため、奇想天外な軍装にて上洛し、秀吉に、自身が渡海のおりの、親衛隊として引きつれたいと思わせるのだ。そうすれば、危険の多い一番隊は避けられる。

 勝算もない朝鮮出兵などで、家臣や命を失うほど愚かなことはないのだ。
 小田原征伐とは、まったく逆の参陣となるのだった。。。




2010年11月11日木曜日

伊達政宗 記(20) 秀吉戦略 9 お伽の国


 秀吉の、負けず嫌いと悪戯好きは、その孤独と劣等感の裏返しかもしれない。


 征明。
 それは、決して秀吉一人の豪語ではなく、中世の諸豪がよく口にする放言だった。
 足利義満も口にしたし、織田信長も口にした。秀吉もまた、高松城の水攻めあたりから、それに近いことを口にしている。
 しかし、それは、綿密に考えた計画でもなければ、誰かに実行を迫られるということでもない。いわば、日本中が意のままになるぞという、誇示的な放言であったり、夢想であったに過ぎない。
 秀吉の出自は不明。しかし間違いなく下層階級の出身であり、体格も小柄で容姿はその醜さから猿と呼ばれた。そして、ただ一人の実子を失い孤独の渦の中で秀吉は、関白職を秀次に譲り、太閤殿下として明国征伐へ軍を発することになる。

 秀吉は、既に名護屋城(佐賀県)を築城させており、これを中心基地とし、朝鮮出兵を開始してゆく。
 しかし、文禄元年の三月一日、二日前に目を患い、秀吉は京を発てなくなっていた。

  第一番手  小西行長、宗義智、松浦鎮信
  第二番手  加藤清正、鍋島直茂、相良頼房
  第三番手  黒田長政、大友吉統
  第四番手  毛利秀元、島津義弘、高橋元種
  第五番手  福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政
  第六番手  小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包
  第七番手  毛利輝元
  第八番手  宇喜多秀家
  第九番手  羽柴秀勝、織田秀信
  更に水軍  九鬼嘉隆、藤堂高虎、加藤嘉明

 別に、徳川家康、前田利家、織田信雄、上杉景勝、蒲生氏郷、伊達政宗、佐竹義宜等は、当分、名護屋にあって本営を固めてゆく参謀本部となってゆく。

 三月十三日、日本の総勢が、名護屋へ向けて京を発った。
 市民を挙げての歓送の中、第一軍は前田利家。つづいて第二軍は徳川家康。伊達政宗は第三軍で、前田、徳川の両将へつづいたのだ。
 前田勢がとおりすぎ、徳川勢がとおってゆく。。。
 しかし、市民は見物のこころに一抹の陰をおとしている。
 (どうして、戦国の世の後にわざわざ明国まで戦いに出てゆかねばならないのか・・・)

 そんな感傷を伊達勢が蹴散らしてゆく!民衆の歓声がその空気を一気に爆発点にまで押し上げた。
 第一番には、金の日の丸を描いた旗が三十本。それが光を反射し、その周囲をパッと明るく照らした。そして、その旗持ちの出立ちはまるで歌舞伎者の行列を見るようで、具足には金の星がキラキラと光っている。

 第二番は鉄砲百挺
 第三番は弓五十張
 第四番は長鑓百本

 この鑓持ちは、径八寸、長さ三尺を越える金色のトンガリ帽子をかむり、朱鞘の太刀に銀鞘の小刀をたばさんでいる。
 その帽子が長いので、それは黄金の巨人の一団に見える。
 第五番が、いよいよ馬上三十騎。
 これは、何れも揃いの黒鎧。馬格雄大の逸物にまたがって、大厚総(あつぶさ)の手綱を引き、なんと、黒兜には孔雀の尾をきらびやかに飾り付けているではないか!
 黒と孔雀の色彩は、若芽立つ京の春に不思議な頼もしさを撒きちらし、毘沙門天(びしゃもんてん)の行列を想わせる。しかも、その背には、黄金の大太刀・九尺五寸が、金の鎖で鞍にしめくくって帯びられている。

 そのあとに続く政宗は、熊毛の戦袍に日の丸の大軍扇を開いて隻眼をカッと大きく見開き、それは、そのまま魔神を見るような風貌だ。


 政宗の地上に描き出した色彩の妙に酔わされ、群衆の歓呼は天地を包み出していた。
 それはさながら、お伽(とぎ)の国から参陣した軍勢を想わせる大行列だった。。。



画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像

余談:これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指して
「伊達者」(だてもの)と呼ぶようになった。
これが「伊達男」の語源となる。