2010年11月10日水曜日

伊達政宗 記(21) 秀吉戦略 10 朝鮮出兵



 秀吉の、大明征服計画の失敗は改めてここに記すまでもない。

 一番隊として、小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄等合計一万三千七百人が釜山に上陸し、続いて二番隊の加藤清正、鍋島直茂、相良頼房等の二万八百人が上陸し、釜山を占領。
 京城を、五月二日に占領。
 平壌を、六月十六日に占領。

 すると、秀吉の上に又一つの大きな不幸が訪れる。
 平壌占領の知らせに湧いている名護屋の本営に、母の大政所(おおまんどころ)危篤(きとく)の知らせが届いたのだ。
 そして、七月二十二日に八十歳の生涯を閉じたのだった。

 これと前後して、戦局は急速に悪化しだす。
 更に、七月八日にわが水軍が大敗してしまったのだ。
 既に朝鮮へは、二十万を越える軍勢が渡航している。
 早速、秀吉は腹心の、石田三成、大谷吉継、増田長盛の三参謀を現地へ特派して、一切の行政と、軍令の執行と監察をあたらせることにした。
 しかし、これも実は大失敗だった。この三参謀の派遣は、現地の実施部隊の反感を買うのだ。

 後に、石田三成が徹底的に七将(加藤清正・浅野幸長・福島正則・細川忠興・池田輝政・黒田長政・加藤嘉明)に仇敵視されてつけ狙われ、それが関ヶ原の原因の一つになった両者の反目は、このときに生まれてゆくのだった。


 大地も凍る、翌文禄二年の正月六日。小西行長等が平壌を退却。更に、京城までも退却している。この頃、現地では病人続出のうえ、凍死者、餓死者が続出しているという時期だった。
 こうなると、名護屋で伊達勢も遊んでなどいられず、浅野幸長とともに、三月二十二日、名護屋を渡航することになってゆく。
 このとき政宗は、これも三成の仕業であると直感する。まだ名護屋には、蒲生も、上杉も、佐竹も、前田もあるのだ。ここで、秀吉から特別の好意を寄せられている政宗を、あわよくば朝鮮にて骨を埋めさせようとしている三成の陰謀を感じるのだった。

 幸長に二日遅れること四月十三日、伊達勢は釜山へ上陸している。
 このとき政宗は、何とか秋までには朝鮮を発ちたいと思っていた。朝鮮で迎える冬の時期に、自らの命や家臣を大自然の危険にさらすことを避けたかったからだ。
 政宗は、武骨一辺の単純な武将などではない。
 堂々と陣幕を張り、軍儀を開く。
 そして、その夜のうちに金海城を目指して進軍してゆくのだ。
 

 上陸と同時に進軍し、金海城を攻め立て、挙げた首級が二百二十なのだから、その信義も戦功も抜群のものとなってゆく。
 秀吉が、名護屋で小躍りして喜ばない筈はない。
 「さすがは伊達者!」

 政宗は、更に、蔚山(うるさん)では首級八十三を上げ、そして更に、晋州では敵数百人を生捕りにするという手柄を立て、「三国に比類無き高名」という最大級の賛辞を得て、政宗の思惑通り、九月十二日に無事に釜山を出航し得たのだから、まことに天晴れな作戦だったと言えよう。

 (どうだ石田三成め。政宗の器量のほどが少しはわかったか?)
 得々として都の土を踏んだ政宗は、まだ気づいてはいなかった。

 実は、この年の八月三日に、秀吉には外征の原因の一つになった鶴松丸に代わる愛児お拾(後の秀頼)が生まれ、不思議な宿命の鍵を握って育ちだしていた。。。



画像:釜山城攻略/『釜山鎮殉節図』



画像:小西行長(黄線)及び加藤清正(青線)の進路



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