2010年11月7日日曜日

伊達政宗 記(24) 関ヶ原2 秀才俊才


 そもそも戦国武将の最高の希い(ねがい)は「天下を奪りたい!」ということに集約される。

 今、日本中に、百万石以上の大名とそれに匹敵する天下制覇の実力を持つ者は、二百五十五万七千石の徳川家康を筆頭に、百二十万石の毛利輝元、同じく百二十万石の会津に移封を命じられた上杉景勝、八十一万石の前田利家の四大老といっていいだろう。
 五大老のうちでも宇喜多秀家は所領も人物も少しく小型だ。

 それに続く石高では、常州水戸の佐竹右京太夫義宜の八十万石。
 薩州鹿児島の島津兵庫頭義弘の六十万石、伊達政宗の表高(おもてだか)五十八万石と続くのだが、天下争奪の夢の許されるのは、せいぜいこのあたりまでで、他はおりあらば近隣の侵略を狙って他日に備えようとする程度のものだった。

 したがって、さしずめ秀吉の後釜を狙えるものは徳川、毛利、上杉の三家に限定される。
 (---三本の指の中に入っていながら、腕を拱いていて、せっかくの好機を見逃したとあっては相済むまい。)
 それが、上杉家を預かる直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)の「家臣の道」だった。
 太閤が健在で、天下が安定している時、いたずらに動けばこれは妄動になる。しかし、政局が不安定になっているおりに手を拱いていたのでは、政権に近い御三家の家老として怠慢となってしまうのだ。

 第二戦にあって、進んでそれに加わろうとする伊達政宗に比べると、直江兼続の争奪戦参加は、一見冷静であり、消極的に見える。


 世間では、「関ヶ原の役」を豊臣家と徳川家の天下分け目の戦と見て、石田三成を西軍の主謀者とする場合が多いが、これは近視的な見方になる。
 この戦の根源は、人間には老衰があるという、天地の制約に発している。
 老衰した豊臣太閤に、事業を継承してゆくだけの実力を備えた後継者が無く、しかも集団指揮の体制も固まっていなかったとすれば、その後に争奪戦が起こってゆくのは、当然すぎるほど当然のこと・・・。

 そこで兼続は、上杉家の臣道を実践するため、先ずこの争奪戦に加わることとし、そのため利用できる有力な武器として、太閤側近の石田治部省輔三成に白羽の矢を立てている。
 争奪戦に加わるとなれば、私怨の有無は別にして、第一候補の家康を敵としなければならないからだ。
 一方、三成の方では、兼続に上杉操縦の実力ありと見て白羽の矢を立てているのだった。
 三成も天下をわが掌中におさめる気であり、兼続も上杉を天下の主(あるじ)にする気でいる。

 豊臣太閤の老衰という現実の前で、こうたくさんの秀才俊才が夢の競いを始めたのでは、ただでおさまる筈などない。
 時にこの「夢---」を野心と呼んだり、希望と名付けたり、大志だの、生甲斐だのともったいぶって呼んだりもする。

 この後、その夢の総決算が、関ヶ原の役となってゆくのだ。





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