2010年11月8日月曜日

伊達政宗 記(23) 関ヶ原1 直江兼続(なおえかねつぐ)



 秀吉の急激な老いは、言うまでもなく関白秀次の処刑によって早められた。
 そして、三十四人の妻妾まで刑場に送らせた天罰で、精力を怨霊に吸い取られたという解釈も成立ちそうだ。

 実は三成が、必要に政宗を陥れていた訳の全てがここにあった。
 秀吉の死が間近に迫っているのだ。
 策を構えてあっさりと秀次を片付けてしまった三成にとって、秀吉の信頼している家康は、目の上の瘤(こぶ)どころか、断じてそのままにしておけない仇敵だった。
 その仇敵と次第に交わりを深くしてゆく伊達政宗。
 それが奥羽中を一眼で睨み据えている実力者。
 そうなれば、この若鶏から先にひねろうとするのは、当然のことだったのだ。
 しかし、これを境に、三成はこの曲者政宗に接近し、これを抱込もうと計ってくる。


 この少し後の、秀吉の薨去(こうきょ)から関ヶ原の役へ移るまでの、微妙な戦国武将の駆け引きの中で、当事者の三成と家康を除けば、伊達政宗の情報蒐集と身の処し方は、際立った冷静さを見せている。
 家康に味方した七将は、福島正則にせよ、浅野幸長にせよ、加藤清正にせよ、細川忠興にせよ、秀頼のためという大義名分ではなく、感情的に石田三成を憎みすぎていた。
 したがって、次の天下は誰が掌握するであろうかという計算よりも、はげしい憎悪をかざして家康に味方してしまった感が無くもない。
 家康の人柄と思想を見抜いて、初めから本気で味方したのは、黒田長政と藤堂高虎ぐらいのものだろう。
 もう一人、北政所であったと思うが、その他はすべてが危ない秤(はかり)で計り出した、どちらが勝つかの損得勘定による去就だった。

 そのため、どっちへ転んでも「わが家は存続---」という苦肉の策をめぐらし、父子兄弟が、双方へ別れて戦ったものも少なくない。


  石田方         徳川方 

 真田昌幸(父)     真田信之(子、兄)
 真田幸村(子、弟)
 蜂須賀家政(父)    蜂須賀豊雄(子)
 生駒正俊(子)     生駒一正(父)
 九鬼喜隆(父)     九鬼守隆(子)
 前田利政(弟)     前田利長(兄)
 京極高次(兄)     京極高知(弟)
 小出吉政(兄)     小出吉辰(弟)

 こうした厄介な戦の中で、初めから迷わずに、勝敗を見定め、はっきりと賭ける方へ賭けて動じなかったのが伊達政宗であったと言える。


 上杉景勝(うえすぎかげかつ)が五大老の一人であることはいうまでもなく、彼に蒲生氏郷亡き後の会津(福島)百二十万石の地を与えたのはこれ又いうまでもなく、伊達と徳川双方の抑えのためだった。
 が、実のところ、上杉家の当主景勝はそれほどの器量人ではない。百二十万石を背負って立つ器量人は、むしろ家老の直江兼続(なおえかねつぐ)だった。
 その兼続が、上杉家を朝鮮への渡航候補より外すため、いま、三成の下へ出向いて来ていた。

 ここで三成は、兼次を抱き込もうと計るのだった。。。



 秀吉の病気が世間に洩れてから、世間は不思議な情報と陰謀の乱舞時代に突入する。
 甲は乙を疑い、乙は丙を警戒する。
 これを巧みに利用して、眼を輝かせているのは政宗ぐらいのもので、他は大抵この混乱に捲き込まれて、それぞれ右往左往している。
 ところが、その右往左往の中に、実は直江兼続のような大型策士も混ざっていたのだ。

 家康と三成の対立に、伊達政宗がからみ振幅は大きくなっていくのだが、臣道実践の直江兼続がそこへ更に加わっていく。
 いずれも人物として超一流の知恵者揃いのうえに、争う夢の珠(たま)が「天下」なのだから騒ぎは大きくなるばかりだった。。。





画像:直江兼続所用 金小札浅葱糸威二枚胴具足
(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく)
上杉神社所蔵 文化財



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