「葛西大崎一揆」鎮静の最中、それは氏郷(うじさと)より秀吉の下へ届けられた。
「伊達政宗に異心あり!!」
何と政宗には、この「葛西大崎一揆」を裏で扇動していたとの疑惑がかかり、旧伊達家臣等との内通の証拠とされる密書までもが見つかり秀吉へと提出されていたのだ。
そして、政宗には秀吉より即刻の上洛命令が下り、その旨を釈明せよと命じてきた。
「伊達政宗に異心あり!!」
何と政宗には、この「葛西大崎一揆」を裏で扇動していたとの疑惑がかかり、旧伊達家臣等との内通の証拠とされる密書までもが見つかり秀吉へと提出されていたのだ。
そして、政宗には秀吉より即刻の上洛命令が下り、その旨を釈明せよと命じてきた。
政宗は、夫人の愛姫(めごひめ)を京へ人質に差出した時から、秀吉を恐れる気は全く無くしていた。
(-----関白の知略の程度は、決して恐ろしいほどのものではない)
この時の政宗は、全ての面に置いて秀吉よりも更に一枚上手だったと言ってもいいだろう。
秀吉の政治政策を明確に理解し、その一揆に乗じて何とか上京のきっかけを作り、中央進出を遂げようとその機会を狙っていたのだ。それを秀吉に報告し、上洛の機会を与えてくれる役者は、近辺には氏郷より他にはいない。功名争いの中で、氏郷はその役割をしっかりと果たした。
その野心も見抜けず、氏郷は報告し秀吉は上洛を命じてきたのだ。しかも政宗は、失った領地回復の手段として、一揆鎮圧の功績を以て葛西・大崎旧領を獲得しようとまで企んでいた。さらに氏郷に隙あらば、ここで一揆鎮圧の戦に乗じて討取るつもりでさえいた。
氏郷が織田信長に惚れられた秀才ならば、伊達政宗は、この険しい奥羽の自然と虎哉禅師に鍛え抜かれた逸材中の逸材なのだ。
政宗にとっては、全てが希望の筋書きどおりに進展していた。
秀吉の朱印状に続いて、更に家康からも正月五日付で上洛をすすめてきていた。
京では噂が波動を盛り上げている。
「政宗夫人はニセ者であった。」などや、「一揆の際、政宗勢は空砲であった」とか「一揆勢の城には伊達の旗が上っていた。」など俄然広がっていった。
京では噂が波動を盛り上げている。
「政宗夫人はニセ者であった。」などや、「一揆の際、政宗勢は空砲であった」とか「一揆勢の城には伊達の旗が上っていた。」など俄然広がっていった。
「関白に楯突く奥州の独眼竜も、さすがに今度ばかりは生きた空はあるまい・・・。」
上洛命令を受けた当の政宗は、正月の行事を淡々と進めてゆく。機熟の判断には政宗独特のカンがあるようだ。政宗は、作らせておいた金箔塗りの磷付台(はりつけだい)を居間に置き、それを眺めながら次なる風雲を楽しみに待っているのだった。
そして正月十五日、用意していた黄金の十字架を担がせて、京へ向けて米沢を出発したのだった。。。
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