2010年11月6日土曜日

伊達政宗 記(27) 関ヶ原5 上杉討伐



 上杉討伐の決定は、大阪の空気にあやしい緊張を掻き立てた。
 上杉の反逆蹶起(けっき)は、佐和山へ蟄居させられている石田三成の働きかけに依るものであることは、大阪方の奉行たちは知りすぎるほど知っている。みな、何程かの連絡を受けているからだ。


 家康が上杉討伐と名して、大阪より江戸へ発てば、これを好機とし、三成が毛利と共に挙兵し大阪へ入ることになる。そして上杉と三成(福島と大阪)より、江戸を東西から挟撃する形をとってゆく。
 早速、政宗は京より領国へ出発する。
 相手の上杉は、一年あまりも前より領国で戦の支度をしているのだ。
 そして政宗に二日遅れて家康が江戸へ発っている。

 政宗は、七月十二日、名取群の北目の城へ入る。
 北目は今の仙台と眼と鼻の間にあり、政宗はこの時、遠からず岩出山からこの辺りに本拠を移そうと考えていたので、ここで帰国第一回目の作戦会議へ入るのだった。

 家康はこの時江戸城にあって、近畿の情勢と、会津の情勢を睨みわけていた。
 家康が江戸城を出発して会津へ向かったのは七月二十一日。
 この時にはすでに三成の呼びかけに応じて蹶起した毛利輝元は、総大将として、大阪城の西の丸に入っていた。そしてそれを合図に西軍は、鳥居元忠(とりいもとただ)を留守居にした伏見城(京都)を数万の大軍で包囲し、熱戦の火蓋は切られていたのだった。

 家康は自身で会津まで行く気は初めから持っていなかったようだ。
 そんな家康が今、計りかねているのは伏見陥落の諸将の向背(こうはい)だった。
 伏見城が落とされる頃には、家康について来ている諸大名の妻子は、みな敵側の人質になってゆくに違いないのだ。その妻子を人質にとられ、どれだけの人数が家康から脱落してゆくか?
 それを見きわめてから上方へ引き返して敵を叩く。
 上杉のことは伊達政宗に任せて充分。
 家康はこの度の戦で、日本中の地図をそっくり書き直すつもりでいた。

 一方、このとき政宗は、上杉方の白石城を落とし首級七百を挙げ、直江兼続を仰天させていた。
 この時、政宗の胸算用はいったいどうなっていたのであろうか?




画像:白石城 宮城県白石市



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