秀吉は亡くなり、家康と三成は両立しない。
家康は、天下の泰平第一を呼号し、三成は遺弧(いこ)秀頼への忠誠を声を大にして宣伝する。
しかも、この勝負は五分五分と見ているところに、政宗の計算の根拠と位置づけがあった。つまり、政宗が味方した方が勝つのだから、その立場を利用して「百万石」で家康に売りつけたのだ。
それを、家康は「百万石の御墨付(おすみつき)」と呼ばれる書状を政宗に送り、これを怒りもせずに承諾したのだった。
政宗は、この度の戦で、まだ自分へは天下はやってこないものと思っている。なので、ここでいったん江戸の家康に天下を預けておくつもりなのだ。それが三成が毛利などと手を組み、京にて政権を握られたのでは、奥羽よりあまりに遠すぎて手が出しづらいからだった。
その間に、政宗は領地を百万石以上とし、その財力にて天下を望める仙台城を築城しておき、そして海外へ貿易を開始し、更なる財源を手元へ集めようと考えている。
秀吉同様、六十歳を目前にした家康へも、天地の制約として老衰があるのだ。まだ三十歳を越えたばかりの政宗には、家康の隙を衝く機会が、いずれはあると踏んでいる。
その為にも、わが領地を百万石以上へはしておきたかったのだ。
関ヶ原前夜の両者の画策は、伊達政宗の位置から見ていると、絵巻物か屏風絵でも見てゆくようにめまぐるしく展開しだした。
その間に、政宗は領地を百万石以上とし、その財力にて天下を望める仙台城を築城しておき、そして海外へ貿易を開始し、更なる財源を手元へ集めようと考えている。
秀吉同様、六十歳を目前にした家康へも、天地の制約として老衰があるのだ。まだ三十歳を越えたばかりの政宗には、家康の隙を衝く機会が、いずれはあると踏んでいる。
その為にも、わが領地を百万石以上へはしておきたかったのだ。
関ヶ原前夜の両者の画策は、伊達政宗の位置から見ていると、絵巻物か屏風絵でも見てゆくようにめまぐるしく展開しだした。
慶長四年の正月十日、石田三成が、秀頼と共に大阪城へ移り、前田利家の許を訪れて家康攻撃の火蓋を切った。
最初は、例の私婚禁止の制令に違反するものとして詰め寄る。
家康はそれを、「ならば延期しよう」、とぬらりとかわし相手がカンカンになっているところへ、さっさと伏見城(京都)へ入り込んでいった。不自然さも感じられないその理由は、政務が執りがたい。
すると間もなく、三月三日、三成が最大限に利用しようとしていた家康の対抗馬、前田利家が六十二歳で亡くなる。こうなると、朝鮮の役のおりの七将の、三成に対する反感は押さえようもないものになって爆発した。
利家の亡くなった翌四日、いきなり七将が三成を襲ったのだ。行き場の失った三成は、なんと家康の懐へ逃げ込んでいった。すると家康は、激昇して追ってきた七将を、逆に叱りつけて追い返すという不思議な行動へ出るのだった。
政宗は、全く腑に落ちない。
ここで家康はただ七将へ三成を討たせてしまえば、そのまま三成は八裂きにされ、勝手に天下の方から家康の元へ転がり込んでくるものと思っている。
それが正直、当時の家康と政宗の思慮の開きだった。年齢の開き、塾未熟の差ともいえる。
家康はこの頃すでに「道義立国」の幕府政治を胸に描きだしていた。陰険な政策だけて天下が治まるものではなく、どこまでも合理的に、みなが納得するような裁きを見せつけているのだ。
家康自身、私婚は制令に”もとる”といって、おとなしく縁談延期をしている。
三成は五奉行の列からはずされ、これで完全に失脚した。
三成が佐和山(滋賀)へ蟄居(ちつきょ)したのが三月七日。
家康が大阪城に入ったのが九月七日。
この頃になると、いよいよ又、筋書きは以前から伊達政宗が予期していた筋へ戻って展開していった。
上杉景勝が、家康に命じられてもなかなか会津から上洛してこないのだ。
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