2010年11月16日火曜日

伊達政宗 記(15) 秀吉戦略 6 小人


 石田三成は『小人』と呼ばれた。
 この小柄な体格の大陰謀家は、あの天下分目といわれた「関ヶ原の戦い」を引き起こす張本人なのだが、それはもう少し後の話になる。


 豪華絢爛(ごうかけんらん)な黄金の磷付台を担ぎながらという、政宗の人を喰った上洛に、秀吉は激怒以上に唖然としていた。
 しかも派手なのは磷付台だけではなく、それを担ぐ小者の衣装は真っ赤な段染めの揃いの法被(はっぴ)で、馬鎧から太刀まや毛槍まで、わざわざ揃えさせたものだったのだ。

 (あの小僧、ことごとくわしの好みを知っていくさる!)

 生涯、奇抜さと豪華さと派手さを愛した、この秀吉という武将は、大胆で豪快なこの若者に、過去の自分と重ね合わせるような愛着さをもっていた。
 だが、一揆扇動の疑惑が掛かる政宗をこのまま京に入れる訳にはいかず、途中で叩き斬るつもりで石田三成を引き連れ、尾張(愛知)の清洲城へ入っていくのだった。

 (あやつ今度はどのような面構えで出てくるか?)
 秀吉はどこか愉しげさえ感じていたのではないだろうか、、、。


 実は、この頃秀吉は、少なからず人生的な打撃にあい、小田原征伐の頃の元気をすっかり無くしていた。
 何よりも一粒種の鶴松丸がひ弱だったのだ。三歳になって正月を迎えていながら、三日から風邪で咽喉を腫らして、なかなか熱も下がらない。
 その最中に、今度は、弟の大納言秀長が五十一歳で亡くなってしまったのだ。正月の二十三日だった。
 この羽柴秀長の死は、秀吉の生涯に拭いきれない程の大きな打撃を残すことになる。
 実際に今のこの秀吉人気を支える陰の大番頭は、弟秀長だったのだ。いや、秀長と千利休が、左右にあって、情報の整理やら、人事の相談やらを全て務めていたのだった。

 なので、もしこうした打撃がなかったのなら、伊達政宗への風当りはもっと強烈なモノになっていたに違いない。


 二月二十七日、政宗が尾張へ入ると、とある小男が旅の前途をさえぎった。そうこの男が、石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)。
 そして、そのまま清洲城へと案内されてゆく。
 このとき政宗は、奥州仕置の際、秀吉から拝領された卯の花おどしの大鎧に熊毛の兜を着用し、桃山時代特有の華麗さを見せながら上洛していたのだった。。。


画像:豊臣秀吉所用 伊達政宗拝領

銀伊予札白糸威胴丸具足
(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)
仙台市博物館所蔵 重要文化財



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