2010年11月4日木曜日

伊達政宗 記(29) 関ヶ原7 仙台城


 仙台築城には一つの大きな問題がある。
 世が泰平ならば、城を必要としない。
 天下泰平を呼号した、家康側として政宗は戦っている。。。

 政宗には、家康の肚の内がわかっていた。
 家康が江戸をなかなか動かず、発つのは九月半ば。
 尾張へ着くのは十月初め、三成の佐和山城陥落が十月末。
 その後、大阪城へ入るまでを考えると、その頃近畿は冬に入るため、江戸へ戻るのはせいぜい来年の四月か五月。
 政宗はその間に、千代(せんだい)へ巨城を築いておこうと企むのだ。
 岩出山の猿山の城では天下は望めない。悪くいっても百万石が手に入る。
 いずれ天下を望むとなれば、それにふさわしい城が何としても必要だと考えるのだった

 しかし、問題は、家康がそれを許すであろうか?

 ここに政宗が、他の諸将が及ばないほどの実力者であり、遥かに大きな策謀家であった理由がある。
 家康は、清洲城(愛知)にて関ヶ原の采配をとるに違いないく、その多忙をきわめているおりに、この築城を持ち出し許可を得ようというのだ
 「謙信公以来の上杉勢は殊のほか強く、岩出山まで攻め込まれたのでは戦にならぬゆえ、何としても堅固な城塞がなけらばならぬ。千代(仙台)あたりが適地。」
 なので、焦って上杉征伐をしたのでは、築城が思うに任せられない。
 しかも、それを上杉と戦う片手間に成し得る仕事と計算しているのだから凄まじい。

 そして更に政宗は、以前和賀郡(岩手県)の領主であった和賀忠親を北目城に早速呼び寄せた。
 和賀忠親は、政宗よりも十歳ほど年下で、十年前の小田原征伐のおり、伊達家同様、至急参陣するよう命じられていながら、遅参したため、秀吉の怒りにふれ、領地を没収されて南部利直へ与えられていた。
 その後、伊達政宗を頼って伊達領に住んでいたのだ。
 その南部領(旧和賀領)を、百万石では物足りず、領民の一揆を扇動し、和賀忠親をもってかすめとり更なる領地拡大を企てているのだった。


 実は、この関ヶ原の役のおりに、これと同じようなことを考えていた人物に、西に黒田長政の父の如水(にょすい)という怪物がいた。
 如水は、息子の黒田長政が、家康と共に関ヶ原で戦っている間に、自分は隠居仕事に、北九州から長州あたりまで、そっくり侵略しておくつもりだった。
 しかし、伊達政宗の計画はその如水の上を行っている。
 家康より百万石の約束を取付け、それでは物足りず南部領を侵略し、更には巨城築城まで行おうとしているのだ。
 あの百二十万石を背負って立つ器量人、直江兼続を相手にしながら。
 しかも、まだ政宗の年齢は三十五歳という若さだった。


 果たしてここまでの危険を侵してまで、政宗が家康に楯突く必要があったのだろうか?
 これが天下争奪の第一戦へ加われないことへの劣等感と、常に家康に先を越されてきた事への不満から生まれた、若い強烈な競争心だとは、まだ政宗も気付いてはいなかった。。。



画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像



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