政宗が、関ヶ原後、家康に呼び出されて、初めて伏見城で対面したのは、慶長六年の十月上旬だった。
徳川幕府の設立後に、豊臣秀頼公(十歳)を何とするか、、、
これは、政宗ならずとも全国の諸大名が固唾をのんで見守る、天下泰平の鍵だった。
家康は、秀頼を六十余万石ほどの大名として残し、太閤の偉業に報いるため、武将であると同時に、公家でもあるという特異な家柄を残すことで、亡き太閤への義理を果たそうと考えている。
結局、豊臣家の遺臣のうち、目ぼしい諸将はみな大々名で残しているので、秀頼の生計は六十余万石で充分なのだ。
つまり、暮し向きは六十余万石の大名。普通六十万石の大名では、官位はせいぜい少・中将か中納言止まり。それを豊臣家に限って、五摂家並みに関白まで昇進出来る特例を残しておく。
そうして家康は、天下を平定し、乱世をひとまず終息させた秀吉ヘの、義理を果たしたことにしたいのだった。
豊臣家は、関白とする公家。
徳川幕府の設立後に、豊臣秀頼公(十歳)を何とするか、、、
これは、政宗ならずとも全国の諸大名が固唾をのんで見守る、天下泰平の鍵だった。
家康は、秀頼を六十余万石ほどの大名として残し、太閤の偉業に報いるため、武将であると同時に、公家でもあるという特異な家柄を残すことで、亡き太閤への義理を果たそうと考えている。
結局、豊臣家の遺臣のうち、目ぼしい諸将はみな大々名で残しているので、秀頼の生計は六十余万石で充分なのだ。
つまり、暮し向きは六十余万石の大名。普通六十万石の大名では、官位はせいぜい少・中将か中納言止まり。それを豊臣家に限って、五摂家並みに関白まで昇進出来る特例を残しておく。
そうして家康は、天下を平定し、乱世をひとまず終息させた秀吉ヘの、義理を果たしたことにしたいのだった。
豊臣家は、関白とする公家。
徳川家は、征夷大将軍としての武家の棟梁。
ところが、政宗からみると、これは、何とも家康らしくない非現実的な妄想に思える。
或は老人の感傷か、愚痴のようでさえあった。
その唯一の「家柄---」などを残してやっても、当人にそのありがたさがわかるものとは限らない。
しかも、六十万石が多過ぎる。
そこへ太閤の遺産である金銀もあれば、大阪城もある。
世の中に三成は一人や二人ばかりではなく、いずれ必ず悪戯者が食いつき、秀頼をそそのかし、天下泰平を掻き乱してゆくに違いないのだ。
ところが、政宗からみると、これは、何とも家康らしくない非現実的な妄想に思える。
或は老人の感傷か、愚痴のようでさえあった。
その唯一の「家柄---」などを残してやっても、当人にそのありがたさがわかるものとは限らない。
しかも、六十万石が多過ぎる。
そこへ太閤の遺産である金銀もあれば、大阪城もある。
世の中に三成は一人や二人ばかりではなく、いずれ必ず悪戯者が食いつき、秀頼をそそのかし、天下泰平を掻き乱してゆくに違いないのだ。
この六十万石には、一つのある意味を含んでいる。
実力があればそのまま栄え、器量がなければ多過ぎる石高であり、決して執政が容易というわけではない。
事実、政宗の伯父の最上義光は、関ヶ原後、二十四万石が一躍二倍以上の五十七万石に増封され、政宗と比べてみると一見世渡り上手の様に見えるが、この後二十一年目、義光の孫義俊は、そっくり封を没収されて最上家は滅んでいる。
それに比べて、伊達政宗は、別に庶長子の兵五郎秀宗を伊予の宇和島(愛媛)十万石に分立させて、両家の余慶を明治まで伝えさせている。
秀頼に関して政宗は、幾度も直接家康に進言していた。
「秀頼公を江戸に引取り徳川様の手許にて教育せよ。さもなくば、泰平を考えられる一人前の男には育ちませぬ。今のまま、女の玩具にしておくと、必ず大阪へ攻め上らねばならぬ道理・・・。」
事実、秀頼は、父秀吉の歿後、母である淀殿(よどどの)をはじめ、女子に囲まれ育てられるという奇妙な育ち方をしていた。
しかし、この事になると、家康は人が変わったように頑固で、非現実的で、反政治的な面を剥き出しにしてくる。それは「道義立国」という理想より、夢想の中に存在しているようにみえ、それが政宗には歯痒く感じるのだった。
これが秀吉だったならば即座に呼びつけて秀頼を叱りつけたに違いない。
「いやだと申せば、大阪城は踏み潰す!」
ところが、家康は、そうした"はったり"や芝居の出来ない土木的で農耕的な人柄だった。
政宗が、妻子と共に江戸へ移ったのは慶長八年の正月。
政宗が、妻子と共に江戸へ移ったのは慶長八年の正月。
家康に、右大臣 征夷大将軍の正式宣下があったのが二月十二日。
秀頼に、やがて関白になるという前提で内大臣に昇任したのが四月二十二日。
秀頼と千姫(秀忠長女 七歳)を娶合わせ(めあわせ)ようという話が、家康の口より出たのが五月十五日。
そしてこの年十一月、家康の三男である秀忠(ひでただ)は右近衛大将となり、これが幕府の次の大将軍へ決まったことを意味している。
実はこの昇任は、この先も徳川家が、政治を預かり続けてゆくことを暗示しているのだ。
そうすれば、遠からず、大阪は秀頼、江戸は秀忠という時代が、政宗の前にポカリと顔を出してくるに違いない。
家康もそう長くは生きられない。
今年はもはや、秀吉の亡くなった六十三歳となるのだ。
これが、義理だけではどうにもならない大自然の裁き。
秀頼の存在は、いまや家康の律儀な義理立てだけで持っていた。
それに気付き、両家の親睦を心から計ってゆく者が豊臣家に現れてよい筈なのだが、、、
しかし、豊臣の方から、そうした働きかけをする者はなく、しかも、関白政治から将軍政治に変わったことすらよく呑みこめずにいる有り様。
豊臣家は、今、自分たちの置かれている立場も悟れず、薄氷の上で裸の舞踏を続けているのだった。。。

画像:大阪城
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