2010年11月12日金曜日

伊達政宗 記(19) 徳川家康 2 巨大な丸太


 秀吉と家康の手応えは、きわ立って異なっていた。

 一方は鍛えられた鋼のように、叩けばキンキン音がする。
 ところが、家康は山腹に投げ出された皮つきの丸太の感じなのだ。
 それも小さな丸太ではなく、全くもって掴めない巨木のような感じだった。
 分厚い皮に覆われ、中身の検討がまるでつかない。
 若いおりは相当な乱暴者だったと聞いている。
 家康は、この度、宮城へは約四十日間滞在しているのだが、政宗を迎える岩出山城を、家康の手で更なる一大要塞へと造築していたのだ。


 政宗の性格は、家康よりも秀吉に近い感じだった。

 秀吉と向かい合うと不思議に闘志が誘発され、知恵が次々と沸き上がってくるのだが、家康の前ではそれが反対だった。全身が痒く(かゆく)なってくる想いがする。
 その闘志が打つかり合おうとして、どこかで、歯切れ悪く反れていってしまうのだ。
 一方では才覚抜群と評価され、もう一方では青二才と侮辱されているような気がしてくる。

 それにしても、こうして結ばれた家康と政宗の生涯は、まことに奇妙なものだった。
 政宗は、生涯家康には心服しなかった。いや、秀吉に対しても同じことで、他人に心服出来ない自尊心をもって生まれた竜だったのだ。その意味でも、家康のこの移転案は的を得ている。
 後日、政宗の長女の五郎八姫(いろはひめ)が家康の六男忠輝(ただてる)に嫁いだのも、家康が死に当たって、後事を政宗へ託したのも、いわば、この奇妙な認め合いと不服従の、屈折限りない延長だったといってもいいのだ。

 正月五日、政宗は一千五百という軍兵を、倍の三千で岩出山を出発する。
 これには、政宗の知略が、ふんだんに盛りこまれていた。
 この勝算も曖昧な明国征伐は、どう考えても正気の沙汰ではない。
 政宗は、そこへ三千という倍の軍勢にて早々に参陣し、先陣を申し出る。しかも、その軍装を奇想天外な軍装にて上洛する。
 もし、一千五百に満たない軍勢であったり、遅参した場合には、秀吉より先陣を突きつけられることになるだろう。それを避けるため、奇想天外な軍装にて上洛し、秀吉に、自身が渡海のおりの、親衛隊として引きつれたいと思わせるのだ。そうすれば、危険の多い一番隊は避けられる。

 勝算もない朝鮮出兵などで、家臣や命を失うほど愚かなことはないのだ。
 小田原征伐とは、まったく逆の参陣となるのだった。。。




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