関ヶ原の役を語るうえで、この羽柴秀次に降り掛かった不幸を避けては通れない、、、
秀吉にお拾(おひろい)が生まれたうえに、明国との間に講和の道が開けそうな気配が生まれ、政宗はそのまま滞京を命じられた。
この田舎者に、都の磨きをかけてやろうという秀吉の想いもあったと考えられるが、これから一年有半の政宗の滞京は、後の、仙台の街造りや経営に貴重な経験と教養をもらたす大切な時期となってゆく。
政宗が、帰国を願い出る際、その理由は、全く手のついていない岩出山の領地の藩政と、蒲生氏郷(四十歳)の死だった。二十六歳の正月早々、あわただしく岩出山城を出発した政宗は、二十九歳の初夏に領土の土を踏んだのだった。
ところが-----
今度もまた、岩出山城に着いて二ヶ月も経たぬうちに、秀吉から即刻上洛するようにという命令が届けられた。
「秀次謀反!」
というぬきさしならない罪名の下に、秀次は処断され、伊達政宗にも、その謀反の加担者と決め付けられての上洛命令だったのだ。
この全く腑に落ちない罪名の下、関白秀次は七月十五日に切腹させられていた。
このとき、政宗の全く気付かないところで、素晴らしく緻密な三成の陰謀が着々と練り上げられていたのだ。
何時も同じことは、政宗が帰国すると、追いかけるようにして、上京の命令が届く。それはまるで、ひとまず秀吉の膝元から、政宗を引き離しておいて、その間に巧妙な陰謀が仕込んであるような感じがするが、、、
それはやはり、全てが石田三成の陰謀とまでは分かるのだが、この度の上洛は、今までとは全く事情が違う。
政宗が領国へ帰って、僅かに二ヶ月あまり、その間に、秀吉の政宗へ対する信頼は逆転していた。
政宗は、言われるままに七月末には岩出山城を出発する。秀次の重臣達がそれぞれ処刑され、八月二日、秀次の妻妾三十四人と、その子四人が三条河原で斬られていた。
秀次自身が切腹を受入れたにもかかわらず、その首を晒し一族郎党を処刑するという、当時の日本国の倫理観と社会常識の点から見ても、これは悪逆無道ともいえる処置だ。
しかも、秀次は秀吉晩年では唯一と言ってもよい成人した親族であった。しかし、彼等をほぼ殺し尽くしたこの行為は、只でさえ数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となっていく。
この事件に関係し、政宗同様に秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原では徳川方である東軍に属してゆくのだが、それはもう少し後の話、、、。
この政治的矛盾をはらんだ事件は、この直後の豊臣政権内外に大きな禍根を残しただけに、この時の伊達政宗は、秀吉の重臣の間では、隠居するより助かる道はないとまで囁かれていた。
しかし、聚楽第での伊達屋敷では、伊達の名家臣である、片倉、成実、留守、亘理、国分、白石、原田、石母田と、例え五万石以上を与え二千人以上を指揮させるに足る武将が、十九人ほどは揃い出していたのだ。それらが今、一同斬り死の覚悟を決めて、固く鎖した門扉の中で結集し、次第に士気を高めていたのだった。
伊達勢は京を焼き払い、堂々と領国へ引き揚げるなどと世間では噂されている。事実、氏郷亡き奥羽で、これだけの伊達家臣が結束すれば、小田原攻めなどより数段難儀な戦になってゆくに違いない。しかも、いま秀吉は朝鮮へ、軍勢の主力を割いているのだから片手間でなんとかなる戦ではなくなってくる。
こうなると、半狂乱な秀吉でも、手を拱いてはいられなくなる。早速、大納言 徳川家康を呼びだし相談をもちかけるのだった。
翌二十四日、伏見城から伊達家へ太閤の使者が立っている。
伊達家では、いよいよ最後の時と武装へとりかかる。ところが使者より、伊達の疑いは解けた、そう言われたとき、政宗はむろんのこと、居並ぶ重臣たちもポカンとして、暫く顔を見合ったのではないだろうか。
ことがことだけに、伊達家では、秀吉へ"重臣十九人連署の誓書"を差し出し、全ては丸く無事にすむのだった。
そして今度は翌朝、太閤の使者より、さすがの政宗でも目が剥くようなことを告げられる。
「政宗の長子 兵五郎(五歳)を、従五位下の侍従に奏請し、秀頼のお側小姓として仕えさせる。そして元服させ、名を秀宗と名乗らせる。」
(これは太閤の知恵とは、いささか質が違うようだが・・・。)
政宗には、その裏がはっきりと見えている。
石田三成は、兵五郎 秀宗をつかい、政宗を更なる罠へ陥れてくるだろう。太閤も、奥羽の乱と征明を秤(はかり)にかけ、緻密なあの三成の罠を、さっさと除けて通っていった。さらに、風の噂と政宗の直感が、家康の太閤への助言がことを丸く治めているのだと察せられる。
すると家康は、そっくり全てを見抜いて動いていた・・・。
政宗の思考の届かないところで三成の陰謀が起き、それが知らない間に家康の手により鎮められる。
秀吉にお拾(おひろい)が生まれたうえに、明国との間に講和の道が開けそうな気配が生まれ、政宗はそのまま滞京を命じられた。
この田舎者に、都の磨きをかけてやろうという秀吉の想いもあったと考えられるが、これから一年有半の政宗の滞京は、後の、仙台の街造りや経営に貴重な経験と教養をもらたす大切な時期となってゆく。
政宗が、帰国を願い出る際、その理由は、全く手のついていない岩出山の領地の藩政と、蒲生氏郷(四十歳)の死だった。二十六歳の正月早々、あわただしく岩出山城を出発した政宗は、二十九歳の初夏に領土の土を踏んだのだった。
ところが-----
今度もまた、岩出山城に着いて二ヶ月も経たぬうちに、秀吉から即刻上洛するようにという命令が届けられた。
「秀次謀反!」
というぬきさしならない罪名の下に、秀次は処断され、伊達政宗にも、その謀反の加担者と決め付けられての上洛命令だったのだ。
この全く腑に落ちない罪名の下、関白秀次は七月十五日に切腹させられていた。
このとき、政宗の全く気付かないところで、素晴らしく緻密な三成の陰謀が着々と練り上げられていたのだ。
何時も同じことは、政宗が帰国すると、追いかけるようにして、上京の命令が届く。それはまるで、ひとまず秀吉の膝元から、政宗を引き離しておいて、その間に巧妙な陰謀が仕込んであるような感じがするが、、、
それはやはり、全てが石田三成の陰謀とまでは分かるのだが、この度の上洛は、今までとは全く事情が違う。
政宗が領国へ帰って、僅かに二ヶ月あまり、その間に、秀吉の政宗へ対する信頼は逆転していた。
政宗は、言われるままに七月末には岩出山城を出発する。秀次の重臣達がそれぞれ処刑され、八月二日、秀次の妻妾三十四人と、その子四人が三条河原で斬られていた。
秀次自身が切腹を受入れたにもかかわらず、その首を晒し一族郎党を処刑するという、当時の日本国の倫理観と社会常識の点から見ても、これは悪逆無道ともいえる処置だ。
しかも、秀次は秀吉晩年では唯一と言ってもよい成人した親族であった。しかし、彼等をほぼ殺し尽くしたこの行為は、只でさえ数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となっていく。
この事件に関係し、政宗同様に秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原では徳川方である東軍に属してゆくのだが、それはもう少し後の話、、、。
この政治的矛盾をはらんだ事件は、この直後の豊臣政権内外に大きな禍根を残しただけに、この時の伊達政宗は、秀吉の重臣の間では、隠居するより助かる道はないとまで囁かれていた。
しかし、聚楽第での伊達屋敷では、伊達の名家臣である、片倉、成実、留守、亘理、国分、白石、原田、石母田と、例え五万石以上を与え二千人以上を指揮させるに足る武将が、十九人ほどは揃い出していたのだ。それらが今、一同斬り死の覚悟を決めて、固く鎖した門扉の中で結集し、次第に士気を高めていたのだった。
伊達勢は京を焼き払い、堂々と領国へ引き揚げるなどと世間では噂されている。事実、氏郷亡き奥羽で、これだけの伊達家臣が結束すれば、小田原攻めなどより数段難儀な戦になってゆくに違いない。しかも、いま秀吉は朝鮮へ、軍勢の主力を割いているのだから片手間でなんとかなる戦ではなくなってくる。
こうなると、半狂乱な秀吉でも、手を拱いてはいられなくなる。早速、大納言 徳川家康を呼びだし相談をもちかけるのだった。
翌二十四日、伏見城から伊達家へ太閤の使者が立っている。
伊達家では、いよいよ最後の時と武装へとりかかる。ところが使者より、伊達の疑いは解けた、そう言われたとき、政宗はむろんのこと、居並ぶ重臣たちもポカンとして、暫く顔を見合ったのではないだろうか。
ことがことだけに、伊達家では、秀吉へ"重臣十九人連署の誓書"を差し出し、全ては丸く無事にすむのだった。
そして今度は翌朝、太閤の使者より、さすがの政宗でも目が剥くようなことを告げられる。
「政宗の長子 兵五郎(五歳)を、従五位下の侍従に奏請し、秀頼のお側小姓として仕えさせる。そして元服させ、名を秀宗と名乗らせる。」
(これは太閤の知恵とは、いささか質が違うようだが・・・。)
政宗には、その裏がはっきりと見えている。
石田三成は、兵五郎 秀宗をつかい、政宗を更なる罠へ陥れてくるだろう。太閤も、奥羽の乱と征明を秤(はかり)にかけ、緻密なあの三成の罠を、さっさと除けて通っていった。さらに、風の噂と政宗の直感が、家康の太閤への助言がことを丸く治めているのだと察せられる。
すると家康は、そっくり全てを見抜いて動いていた・・・。
政宗の思考の届かないところで三成の陰謀が起き、それが知らない間に家康の手により鎮められる。
政宗は、いよいよ三十になろうとする年齢を考え、心の帯を固く締めなおすのだった。。。

画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像
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