---日本の外、今、世界は真っ二つに割れていた。
一方は、フィリップ王を総親方とする南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)。
もう一方は、ウイリアム・アダムスなどの親方であるイギリス王などの紅毛人(オランダ人・イギリス人)。これらが、世界各地、各島で犬猿もただならぬ仲となっていた。
世界は今、大航海時代の真っ只中。
大航海時代は、この半世紀後の、17世紀中ごろに、世界中の地域にヨーロッパ人が到達して終焉を迎えることになるのだが、関ヶ原の役がおこなわれた少し前の、慶長五年(一六〇〇)の四月に、イギリス船が難破し大分へと漂流していた。
これは東インド会社が、東洋に向けた商船の一つで、オランダ商船・リーデフ号。
家康が彼等を江戸へ招き、引見したのが五月。そのとき家康は、オランダ人であるアダムスより、初めて航海地図と出会っていた。
一方は、フィリップ王を総親方とする南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)。
もう一方は、ウイリアム・アダムスなどの親方であるイギリス王などの紅毛人(オランダ人・イギリス人)。これらが、世界各地、各島で犬猿もただならぬ仲となっていた。
世界は今、大航海時代の真っ只中。
大航海時代は、この半世紀後の、17世紀中ごろに、世界中の地域にヨーロッパ人が到達して終焉を迎えることになるのだが、関ヶ原の役がおこなわれた少し前の、慶長五年(一六〇〇)の四月に、イギリス船が難破し大分へと漂流していた。
これは東インド会社が、東洋に向けた商船の一つで、オランダ商船・リーデフ号。
家康が彼等を江戸へ招き、引見したのが五月。そのとき家康は、オランダ人であるアダムスより、初めて航海地図と出会っていた。
今まで天下だと思っていた日本は、海の中の小さな島でしかなく、海ほども広い大陸が外には広がっている。
家康の興味は『世界』へ広がっていった。
政宗は、遠からず家康は、隠居するものと踏んでいる。
そうして、家康は一歩退いて、人間秀忠を鍛え上げるべく監督するのもよく分かる。しかも、その隠居仕事として、鉱山業と貿易を考えているに違いないと考えるのだった。
そんな政宗へ、家康より政宗次男 虎菊丸(後の伊達忠宗)と市姫(家康五女)とを、娶合わせようという話が来る。家康は、隠居への準備として伊達家との関係を二重三重に深めてくるのだ。伊達の側からこれを拒む理由は一つもなく、承諾するのだが、、、
(---それにしても、家康が、それほど自分を大切な人間と考えだしたその理由は?)
政宗という曲者を敵に廻すまいという配慮とすれば、少しく念が入りすぎているのではないだろうか?
この頃の家康は、外交政策を積極的におこなっている。
朝鮮王の使節を江戸に迎え、征明を帳消しにし、呂宋(ルソン)王の使者もこの頃すでに江戸へ迎えており、更には漂流したアダムスをブレーンとし、朱印船貿易もこの少し後から盛んになっていく。
日本が、これから世界へ雄飛しようとするならば、紅毛人(オランダ人・イギリス人)ばかり近づけては上手くはいかない。南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)とも親交を保っておかなければならないと、政宗は考えるのだった。
そのために、政宗は、いっそ家康の子の忠輝を利用しようと考えている。
忠輝を天主教信者にしておけば、日本に約六十万人潜在しているといわれる切支丹信者の棟梁は忠輝ということになる。
これは、実に卓抜した政治的な見識と言ってよく、発想のもとには家康への信頼も感じられる。
家康が、紅毛人との貿易と鉱山業に乗り出そうとしている時に、政宗は、南蛮人を近づけようとしてゆくのだ。
家康の裏を掻く気と考えられたなら、それこそ生命取りにもなりかねない事業。それだけに大抵の人物ならば震えあがって尻込みするところなのだが、政宗はそうではない。逆に家康の思案の不足を、補ってやる気なのだからひどく明るく、早速、家康と外交構想を固めてゆくのだった。
こうして、政宗の海外雄飛策は、いうまでもなく家康の外交政策と表裏一体をなす形ですすめられていく。
しかし、これが、ほんとうの意味の一体であったかどうかとなると、甚だ疑わしい。
こうして、政宗の海外雄飛策は、いうまでもなく家康の外交政策と表裏一体をなす形ですすめられていく。
しかし、これが、ほんとうの意味の一体であったかどうかとなると、甚だ疑わしい。
性格的にいって、どちらも強烈な個性と自負心を持っている。
簡単にいえば、家康の方では、どこまでも年少の政宗を見どころのある奴として使いこなしてゆくつもりであり、政宗の方でも又、食えないオヤジながら学ぶべきところはある、という不逞不逞しさ(ふてぶてしさ)は捨てていない。
恐らく、尊敬すべき何程かの進歩性がないと見たら、「---到頭、家康はもうろくした」と政宗は家康をさっさと無視してゆくであろうし、家康の方でもまた「所詮は井の中の蛙」とさらりと政宗を捨ててしまうだろう。
しかし、この一見冷淡な交わりが、実はこの後、人間進歩にも通じる最も好ましい競合となってゆくのだが、、、
これで政宗は、諸候とは些かスケールの違う雄飛策を練りながら、同時に、ことなく将軍職が秀忠の手になるように、格段の協力をしてゆかなければいけない。
秀忠が上洛して正式に将軍職を継いだのは、慶長十年の四月十六日だったが、政宗は、その先駆として二ヶ月前の二月十六日には、もう江戸を発って京都に向かっていた。
家康の信頼が、どのようなものであったかは、この先駆を命じられている一点でもよく分かる。
(---政宗に任せておけば心配ない)
その代わりに、政宗の言うことは、家康も又、無条件で許す・・・という構え。
「---曲者、曲者を知る」
しかし、この一見冷淡な交わりが、実はこの後、人間進歩にも通じる最も好ましい競合となってゆくのだが、、、
これで政宗は、諸候とは些かスケールの違う雄飛策を練りながら、同時に、ことなく将軍職が秀忠の手になるように、格段の協力をしてゆかなければいけない。
秀忠が上洛して正式に将軍職を継いだのは、慶長十年の四月十六日だったが、政宗は、その先駆として二ヶ月前の二月十六日には、もう江戸を発って京都に向かっていた。
家康の信頼が、どのようなものであったかは、この先駆を命じられている一点でもよく分かる。
(---政宗に任せておけば心配ない)
その代わりに、政宗の言うことは、家康も又、無条件で許す・・・という構え。
「---曲者、曲者を知る」
「---英雄、英雄を知る」といってもよい。
とにかく、秀吉亡き日本で、この両者の才略は群を抜いていた。。。

画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像
※余談:紅毛(こうもう)は、オランダ人・イギリス人など北欧系人種の民族の総称。
南欧系(スペイン人・ポルトガル人)の南蛮と対比して使用した。
現代では、身体的特徴を指すことから、差別用語になるため死語。
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