2010年11月14日日曜日

伊達政宗 記(17) 秀吉戦略 8 側近 三成



 秀吉の運命は、凋落期(ちょうらくき)へ入ってゆく。
 二月二十八日、あの側近だった千利休を切腹させてしまったのだ。
 弟秀長につづき千利休までも失ってしまった。

 なぜ秀吉は、武将でもない利休を切腹させてしまったのか?

 政宗の考えは、当然その理不尽の元へ繋がってゆく。
 利休があって都合の悪い人物。。。それは秀長のあとに座って、側近第一の権臣の座を狙う石田三成へと辿り着くのだ。
 三成は、秀吉の窮臣ながら、しかし、彼がほんとうに側近の権勢をほしいままにしたのは、秀長の歿後からだった。清洲城へ、秀吉へ引き連れられてきたことでも、それは証明できる。
 秀吉は、病弱な三歳の実子しか持っていない。ここで巧妙にこの父子に取り入ってあれば、直接天下は取れなくても、その子を踊らせる黒幕にはなってゆけるのだ。
 そうなれば、茶だの禅だのと、見えない物で秀吉の心を縛る利休が、甚だ邪魔な存在になってゆくのだった。

 政宗は、京にてこうした陰謀じみた思考の入り込む余地が、まだ天下には残されていることを感じる。
 (まだ天下は、ひっくり返らぬものでもない・・・)
 いや、それよりも更に政宗をおどろかせたことがあった。
 それは、一応日本を平定した秀吉が、朝鮮半島から明国へ攻め入るという事実を知ったことだった。
 利休が生きていたなら、当然秀吉を諌めただろうが、利休はもうこの世にいない。
 この出兵もまた、新たな秀吉の側近、三成の仕業だった。

 人は、自分が出世した際には、その肩書・才覚を周囲に知らしめるため、とにかく新しく大きな仕事をしようとするようだ。

 そうしている内に、奥羽では「葛西大崎一揆」がぶり返していた。
 そうなると、もはや京で安閑としてなどいられず、さっさと奥羽の鎮静にかからねば、朝鮮どころか、足下に火がつくことになってゆく。
 政宗は、早速五月初めに京を発ち二十日に米沢へ帰着し、ほとんどの精鋭を総動員させ、二万一千騎という大軍勢にて一揆鎮静を始めるのだった。

 八月二十一日、秀吉の命により増援として、中納言秀次をはじめ、徳川家康、浅野長政、石田三成が二本松へ到着する。
 一揆が完全に治まったのは九月八日だから、伊達政宗の働きによるところが大きかったのだ。
 ところが、その伊達勢の決死の実績にもかかわらず、秀吉の命令として、石田三成がひっさげてきた奥羽の再編成案は、米沢を蒲生氏郷へ与え、政宗へは葛西・大崎領を与えるという転封だった。
 これは、一見恩賞のようであって、実に底意地のわるい左還(させん)でもある。
 (あの小人め、ひねりつぶつしてくれようか!)
 むらむらと沸き立つ反逆心を抑えているところへ、家康より使者が来る。
 今、奥羽へ出向いている家康が、しきりに政宗に、会いたがっていた。。。





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