政宗を喜ばせた「百万石の御墨付」は、実は、戦後、そのまま実行されなかった。
政宗が歯がみをして口惜しがったのはいうまでもないが、政宗に一つの大失敗があったからだ。
それはもう少し後の話・・・。
伊達政宗は、先天的な、運命的な、根性の中に、「統領運」と呼ばれるものを持っていたと言われている。
これを持つ者は、生命力も旺盛で、陽性と楽天性と説得力を持つそうだ。
その統領運を持たず、勝算も弾き出せない戦をしてゆく阿呆の標本が、今、西に盲動を開始して、すすんで滅亡の道を歩いていた。
それが石田三成。
しかも、石田三成は、太閤の側にあって、政宗ほどに、世の荒浪に鍛えられてはいなかった。
政宗の知恵は一人で苦境をのり越えて来た知恵であり、三成のそれは、秀吉の影にまもられて通った知恵でしかなかった。
伊達政宗が上品上質の「知恵」と「統領運」に恵まれた人物であることは、言うまでもないが、それでも、今日まで確実に掴み得なかったのが、伊達成実(だてしげざね)の心だった。
伊達成実は、政宗より一歳年下の名家臣。
政宗初陣より共に参陣し、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げ、「武の伊達成実」と呼ばれていた。政宗が小田原征伐へ参陣の際は、黒川城の留守居役を勤め、その才覚は政宗の右腕として高く評価されていたのだ。
しかし、秀次事件直後に、成実は伏見にいた政宗の下より突如出奔していた。
彼が伊達の陣営に無いということは、勝敗にかかわる程の影響をもつ。
その出奔後は、上杉景勝より家臣となるよう誘われ、家康からも誘われている程の人物。
その成実が、白石城攻めを直前にした政宗の下へ戻ってきたのだ。北目城内では伊達勢の活気が一気に爆発した。
成実が、政宗の下へもどった大きな理由が、家康との出会いだった。
家康とのほんの一度の引見により、心を変えられていたのだ。
事実、慶長七年から八年にかけて、成実は亘理(わたり)約三万石を与えられた時、数々の善政を記録されるほどの名君へと変わっている。
政宗が歯がみをして口惜しがったのはいうまでもないが、政宗に一つの大失敗があったからだ。
それはもう少し後の話・・・。
伊達政宗は、先天的な、運命的な、根性の中に、「統領運」と呼ばれるものを持っていたと言われている。
これを持つ者は、生命力も旺盛で、陽性と楽天性と説得力を持つそうだ。
その統領運を持たず、勝算も弾き出せない戦をしてゆく阿呆の標本が、今、西に盲動を開始して、すすんで滅亡の道を歩いていた。
それが石田三成。
しかも、石田三成は、太閤の側にあって、政宗ほどに、世の荒浪に鍛えられてはいなかった。
政宗の知恵は一人で苦境をのり越えて来た知恵であり、三成のそれは、秀吉の影にまもられて通った知恵でしかなかった。
伊達政宗が上品上質の「知恵」と「統領運」に恵まれた人物であることは、言うまでもないが、それでも、今日まで確実に掴み得なかったのが、伊達成実(だてしげざね)の心だった。
伊達成実は、政宗より一歳年下の名家臣。
政宗初陣より共に参陣し、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げ、「武の伊達成実」と呼ばれていた。政宗が小田原征伐へ参陣の際は、黒川城の留守居役を勤め、その才覚は政宗の右腕として高く評価されていたのだ。
しかし、秀次事件直後に、成実は伏見にいた政宗の下より突如出奔していた。
彼が伊達の陣営に無いということは、勝敗にかかわる程の影響をもつ。
その出奔後は、上杉景勝より家臣となるよう誘われ、家康からも誘われている程の人物。
その成実が、白石城攻めを直前にした政宗の下へ戻ってきたのだ。北目城内では伊達勢の活気が一気に爆発した。
成実が、政宗の下へもどった大きな理由が、家康との出会いだった。
家康とのほんの一度の引見により、心を変えられていたのだ。
事実、慶長七年から八年にかけて、成実は亘理(わたり)約三万石を与えられた時、数々の善政を記録されるほどの名君へと変わっている。
今までは、何れの戦闘にも、真っ向からの主戦論をひっさげた、猪武者の標本のような成実だった。
それが、家康の統領運の呪術により、すっかり去勢された感じを政宗は受けるのだ。
それが、家康の統領運の呪術により、すっかり去勢された感じを政宗は受けるのだ。
何と、この家康の人心収攬術(じんしんしゅうらんじゅつ)の巧みさ!
こうして白石城の総攻撃は、成実の到着した翌日に敢行され、成実は、再び伊達勢の先頭に立って上杉勢を戦慄させながら落城させていった。
が、本来、勝ちに乗じて攻め立てるはずのところを、逆に政宗は、さっさと北目城へ引き上げてしまった。
こうして白石城の総攻撃は、成実の到着した翌日に敢行され、成実は、再び伊達勢の先頭に立って上杉勢を戦慄させながら落城させていった。
が、本来、勝ちに乗じて攻め立てるはずのところを、逆に政宗は、さっさと北目城へ引き上げてしまった。
どうして政宗は、わざわざ上杉勢を生かすような行動をとっているのであろうか?
それは、政宗が、常人では想像もできないほどの策謀を、胸に思い描いているからだった。。。

画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像
※余談:江戸幕府設立後、成実は、仙台藩一門第二席・亘理伊達氏(わたりだてし)の初代当主となるが、明治維新後、亘理伊達氏 第十四代当主 伊達邦成が、家臣と共に移住し現在の北海道伊達市を開拓することになる。
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