2010年11月21日日曜日

伊達政宗 記(10) 秀吉戦略 1 遠回り


 三月十三日、またしても政宗のもとに小田原参陣の催促がやってきた。

 命令を受けた武将の軍勢は、二月中に殆ど行動を起こし、ひたひたと小田原めざして結集し出していたのだ。

   二月七日 蒲生氏郷(がもう うじさと)が伊勢 松坂城を出発
   二月十日 徳川家康が駿府を出発
          前田利家が金沢を出発
          上杉景勝が春日山城を出発
  二月二十日 豊臣秀次が近江を出発
  二月二五日 細川忠興が丹後を出発

 上記の他に、織田信雄、黒田如水、羽柴秀勝、宇喜多秀家、織田信包、小早川隆景、吉川広家、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、長谷川秀一、大谷吉隆、石川数正、増田長盛、金森長近、筒井定次、生駒親正、蜂須賀家政、大友吉統、島津久保、森忠政。
 
 陸上軍だけではなく、さらに水軍では、

   四国 長宗我部元親、伊勢 九鬼嘉隆をはじめ、加藤嘉明、脇坂安治。など、続々と大船団も集結しだしている。

 今小田原めざして動いている軍兵の総数は、文字どおり百万の大動員だった。

 したがって、この大動員令に従う気のない者は、日本国中、伊達政宗ただ一人と言っても決して言い過ぎではないだろう。
 口先では堂々と、「小田原陣の後詰め(ごづめ)仕る(つかまつる)」
 などと言っていながら、出発する気配はなく、その反対に周囲の武将を攻めだした。こうして四囲を怒らせて敵対させ、征伐遅参と大軍が小田原へ割けない理由をつくったのだ。

 秀吉は小田原征伐のあとは、そのまま北上して政宗の首を討つ気でいた。そういう豪語が伊達家の中にも聞え渡ってさえいる。


 伊達家が動揺しだす中、当の政宗は初めの通告どおり参陣日時を四月六日としていたのを、毒のせいにして十五日に出発し、一度引き返し再び出発したのは五月九日。
 今度は何故か、米沢、越後、信濃を迂回して、小田原へ着いたのは、なんと!六月五日。
 しかも、主力は会津に残したまま、到着した軍勢はたったの百騎だったのだ。

 政宗の一行が箱根に着いたとき、小田原征伐も終わりに差しかかっており、落城をまつばかり。もちろん秀吉はカンカンになって、謁見(えっけん)すらも許そうとはしない。

 いったいどうして政宗はここまでして秀吉を敵に回しているのだろうか?
 それは、秀吉という天下人の器量を見抜くため、常人では考えもしない計略を引下げ、わざわざ百騎で遅参していたのだった。。。





画像:小田原城



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