慶応三年の八月十八日、不出世の大英雄と呼ばれた秀吉は、この世を去った。
享年数えて六十三歳。
朝鮮出兵はまだ終わってはいない。
実は、秀吉は自身の死を悟ると、渡航して朝鮮半島にて戦場の中、屍をさらして果てる気でいた。最後まで太閤秀吉らしい、派手で奇抜な去りかたを描いていたのだ。
なのでまだ征明は続いており、途中、戦意は亡くしていたが、船がまだ残っていた、という武将から先に帰国することになってしまっていた。
水軍の大敗により、船の数がまったく足りなくなっていたのだ。
秀吉が亡くなる頃には、残った諸将は、完全に戦場の捨て児だった。
水軍の大敗により、船の数がまったく足りなくなっていたのだ。
秀吉が亡くなる頃には、残った諸将は、完全に戦場の捨て児だった。
命を顧みず前線にいた者が取り残されるという理不尽な結果となっていた。
その撤兵を決定したのが八月二十五日。
日本中で、天下はこの後どうなるかと案じているので、誰も落着いておき去られた人々の運命まで考える余裕などなかったのだ。
そうした中で最も冷静に骨を折ったのは、やはり家康だったと言わざるえない。
自身の持船の殆どを吐き出し、更に博多、境、小田原などの商人たちの持船も狩り集めて、正月までに戦場の捨て児を故国させる目安をつけさせた。
こうして、七年にもわたる征明は、幕を閉じるのだった。
その後で、政宗の長女 五郎八姫(いろはひめ)と、家康の六男 忠輝(ただてる)の縁談の話を、政宗へ切り出してゆく。
この忠輝と五郎八姫の縁談が正式に成立したのは、慶長四年の正月二十日。
しかもこの時に家康は伊達家だけでなく、続けざまに福島正則の養子と、蜂須賀家政の子の両人へ遣わすことにして、三家一度に縁組している。
どうして家康は、秀吉の薨去後にわざわざ豊臣家を煽るような行動をとっているのであろうか?
それは、秀吉の生前は、諸侯の縁組は一応太閤へ話を通し、許しを得ることになっていた。
ところが、その太閤が亡くなってしまうと、まだ六歳の秀頼ではどうにもならず、五大老の筆頭であった徳川家康が、五大老を代表して執り仕切ることになってゆくのだ。
これを許す許さぬは家康が決めることへとなってゆく。
なので、もしこの度の縁組に故障を唱える者があるとすれば、当然それは、太閤の意志に楯付いて天下を乱そうとする者となってゆくのだ。
この縁組は、徳川内府の執政に服さない者を探ってゆく、いわば大切な第一石となってゆく。
政宗は、そうした家康の肝(はら)を見抜いて、そして、三成の謀反、計画から実行まで全てを見抜いて、大切な五郎八姫を縁組させたことになる。
この伊達家と徳川家の縁組のさい、政宗は家康へ、伊達家の旧領七ヵ所の返還と、秀頼のお側がけの兵五郎 秀宗を離して、大名へ取り立てるように申し入れてゆく。
この忠輝と五郎八姫の縁談が正式に成立したのは、慶長四年の正月二十日。
しかもこの時に家康は伊達家だけでなく、続けざまに福島正則の養子と、蜂須賀家政の子の両人へ遣わすことにして、三家一度に縁組している。
どうして家康は、秀吉の薨去後にわざわざ豊臣家を煽るような行動をとっているのであろうか?
それは、秀吉の生前は、諸侯の縁組は一応太閤へ話を通し、許しを得ることになっていた。
ところが、その太閤が亡くなってしまうと、まだ六歳の秀頼ではどうにもならず、五大老の筆頭であった徳川家康が、五大老を代表して執り仕切ることになってゆくのだ。
これを許す許さぬは家康が決めることへとなってゆく。
なので、もしこの度の縁組に故障を唱える者があるとすれば、当然それは、太閤の意志に楯付いて天下を乱そうとする者となってゆくのだ。
この縁組は、徳川内府の執政に服さない者を探ってゆく、いわば大切な第一石となってゆく。
政宗は、そうした家康の肝(はら)を見抜いて、そして、三成の謀反、計画から実行まで全てを見抜いて、大切な五郎八姫を縁組させたことになる。
この伊達家と徳川家の縁組のさい、政宗は家康へ、伊達家の旧領七ヵ所の返還と、秀頼のお側がけの兵五郎 秀宗を離して、大名へ取り立てるように申し入れてゆく。
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