2010年11月24日水曜日

伊達政宗 記(6) 殉死(じゅんし)



 政宗は十九歳のこの年に、父輝宗(てるむね)を亡くしている。

 敵武将に拉致され、連行途中に亡くなってしまったのだ。
 良き理解者であった父を失い、孤独の中当主として立っている政宗へ追い打ちを掛けるように、父輝宗の重臣達が殉死(※下記にて解説)してしまった。

 当主とは言えまだ十九歳の政宗。父親とその重臣達の存在は、今の政宗にとって無くてはならない家臣統一の巨柱であり、寄り掛かれる唯一の巨大な支えだった。それがあっさりと、政宗を見捨ててこの世から去ってしまったのだ。
 奥羽平定へ動き出した矢先の出来事だった。



 翌年の正月、家康からの使者により秀吉・家康の対立は和議で終わったこと知らされる。家康の男子を秀吉の養子として、人質に出すことでまとめられたのだ。
 そして、秀吉の四国征伐が終わろうとしていた。それは、残す九州・関東・奥羽征伐の意味を含んでおり、中央では天下統一へ向けて本格的に動き出していた。

 政宗の中にあった奥羽平定、そして天下統一の計画はここで大きく狂い始めるのだった。。。




※殉死(じゅんし):主君を追って家臣が自刃し死ぬこと。

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