2010年11月3日水曜日

伊達政宗 記(30) 関ヶ原8 九月十五日


 いったい、何時の間に準備していたのであろう?
 すでに八月末に、政宗は、これから築城してゆく千代城(せんだい)のおおよその縄張りを終わらせていた。


 家康が、伏見城陥落の知らせを聞き、上杉征伐より江戸城へ引き返してきたのが、八月四日。
 これと前後して、福島正則以下の豊臣恩顧の諸将は清洲(愛知)へ結集しだした。ここで家康の到着を待ち、天下分け目の決戦場へ向かう予定なのだ。彼等は妻子を大阪で人質に取られながらも悲壮な戦をする気でいた。

 ここから、伊達政宗が見抜いていたとおり、家康は江戸城へ腰を下ろすとなかなかその腰を上げようとはしない。
 そうなると、清洲の客将たちは気が気ではなく、次々と江戸へ催促してゆくのだが、家康はいっこうに江戸を発とうとしないのだ。
 こうして、諸将がジリジリしながら待っているところへ、家康の許から「陣中見舞---」という名で、使者が清洲へやってきたのが八月十九日。
 使者は、上様(家康)は江戸から出てくる気はなく、それは諸将が出て来させぬからだと告げる。
 「この度の戦は、豊臣家から飛び出した戦であり、世間は泰平を望んでいるため上様がこれを助ける道理。みなが真剣に戦う気ならば格別、その気が無いのに、上様一人力むのも詰まらぬ。」
 事実、上杉征伐は豊臣家衆の乱ではなく、天下の泰平を乱す者への征伐という名目だった。それが、家康の留守の間に、上杉と結んで仲間内で起こった乱を、家康が征伐する理由はない。
 これは確かに理屈だった。
 戦って勝てば、天下は家康の手に落ちる。しかし、大阪城へ入っている敵は、諸将の仲間に違いないのだ。

 正則以下の諸将は、その日のうちから進軍を開始し、二十三日には信長の孫、織田秀信を一挙に攻め落とす。
 それ迄江戸にあって動こうとしなかった家康は、狡い(ずるい)といえばこの上なく狡い。
 しかし、一挙に岐阜など落とせるだけの実力を持ちながら、イライラと足踏みしている客将の郡に、起死回生の火をつける機略戦略をきちんと心得ているだから、将(まさ)に統領中の統領といえる。

 これに合わせて、九月一日、家康は自身が到着するまで決戦を避けるよう命じておいて、三万二千七百余人の大軍を引きつれて堂々と江戸城を発っている。

 ここまでは、若干の差はあるものの、伊達政宗の計算と符節を合わせている。
 早速、政宗もまた重臣の山岡重長に家康の後を追わせるのだった。


 八月二十四日の結集から、家康が到着して、関ヶ原の決戦の行われた九月十五日までの、東軍と西軍の対峙は、文字どおり息の詰まる二十一日間であったことは間違いない。
 この頃、政宗は一方では上杉勢に当たりながら、一方では一揆を煽動し、もう一方では築城の準備という多面作戦をやってのけているのだから、非凡な活躍と刮目(かつもく)すべきだろう。
 家康は、途中一日の休みもなく、九月十一日に清洲に着き、ここで二泊したのみで、十五日には関ヶ原で大勝利を治めている。
 そしてそのまま前進し、三成の佐和山が猛火に包まれて陥落したのが九月十八日。
 家康がそれを確かめて近江八幡から草津を経て大津城(滋賀)に入ったのが二十日。
 ここで政宗の使者、山岡重長は、なんとか家康に追いついて目的どおり千代(せんだい)の築城許可だけは手に入れ得たのだが、、、
 さすがの政宗も、家康の天下が、九月十五日に、はやばやと確定するとは思ってもいなかった。


 この関ヶ原の役がおこなわれた、九月十五日は、政宗にとって宿命的な日となった。
 あの和賀一揆の失敗が、政宗へ報告された日でもあるのだ。当然、南部利直より家康へと報告されるであろう。
 百万石の夢を掻き消されるばかりでなく、新城の規模までそれに合わせて縮小しなければいけない。
 それどころか、伊達家の取り潰しにすらなりかねない、重大な局面を迎えることになる、、、



 さすがの政宗も、この時ばかりは真っ蒼になっていたのではないだろうか?






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