米沢領は七十二万石だった。
それが、葛西大崎領を概算すると五十八万石にしかならない。
一揆鎮静という、あれだけの大仕事をしながら、十四万石減らされることになるのだ。
(---伊達氏が、祖父発祥の土地と城を引渡して、いったいどうしろと。)
むらむらと、沸き立つ反逆心を抑えている政宗へ、当時、岩手沢城(宮城)まで出て来ていた徳川家康より使者がみえた。
実は、この左遷(させん)は既に徳川家康が喰っている。祖父代々、辛苦を重ねて築き上げた駿河(静岡)の土地から、荒漠たる原野の関東へ移されていたのだ。
この政宗と家康の出会いは、政宗へ大きな影響をのこすことになる。
家康から、政宗への言葉は「この度のご加封、いよいよ芽出度うござる。」という賀詞だった。
政宗はムッとし聴き返す。
すると、政宗の思案とは異なり、今回の奥州編成案は、三成の小細工ではなく、家康の措置だというのだ。
家康は、江戸へ移されたことを、神仏が与えてくれたご機会だといい、それは政宗へも当てはまると言う。
江戸と同様に、この宮城は中央へ広い平野である大崎耕地をもち、右へ太平洋が開け、左へは山もある。海・山・里と、富は無尽蔵。しかも、葛西には金山もあった。
奥羽の中央へ縦に連なる奥羽山脈は、その右に位置する宮城を積雪から守り、しかも検地の届いていないこの外れた土地には、まだ新田開発という伸びが、随分と残されているのだった。
事実、一反三百六十坪の換算では五十八万石だったが、三百坪で換算すると六十七万石にまで上昇する。
家康は、江戸を二百数十万石くらいには伸ばせるといい、宮城ならば百二十万石くらいには即伸びる土地だというのだ。
政宗は黙りながらも、頭の中のそろばんが、少しづつ動き出す。
「すると徳川殿は、わざわざ政宗へ新領地を与えてくだされたか?」
「おことはただの竜などではなく、何かある度に走りだそう。
氏郷もまた獣。そうなると、なかなか奥羽は納まらぬ道理。」
(家康の魂胆はここにある。奥州が納まらねば、落ち着いて関東の経営などにはあたれない。)
少し唸りながら、政宗また黙っている。
(---先は長いのだ。十年ここで腰を据えて、人生の計画を練り直してみるか。)
この後、朝鮮出兵が待ち受けている。そして何よりも、この少し前、秀吉が熱愛していた一粒種の鶴松丸が、八月五日、ついに三歳のはかない生涯の幕を閉じていた。
秀吉の乱政と、その裏で糸を引く三成。
氏郷などと、へたな"いざこざ"を起こしてなどいられず、目の前の強大な時の流れが、渦を巻いて待っているのだ。
こうして、政宗の移転は決まり、家康も、三成も、長政も、秀次も奥羽から去っていった。
岩手沢(いわでやま)を、岩出山と改称し、主城を岩出山城とした政宗は、町民を町ごと移転させ町割りを始める。
そして間もなく、日本中の全ての武将が警戒していた朝鮮出兵の命令が届いた。
「来年早々大軍を引きつれて、明国征伐に出発する。よって軍兵一千五百を引きつれ、即刻上洛せよ。」
正月、政宗は呆然としていた。。。
移転は終わらず、出陣の用意、、、そこへ奥羽の積雪。。。
しかも、移転する家臣の数は、数千などという数ではないのだ。町割りもろくに終わっていない。。。
政宗ならずとも、呆れるの当然だった。。。
それが、葛西大崎領を概算すると五十八万石にしかならない。
一揆鎮静という、あれだけの大仕事をしながら、十四万石減らされることになるのだ。
(---伊達氏が、祖父発祥の土地と城を引渡して、いったいどうしろと。)
むらむらと、沸き立つ反逆心を抑えている政宗へ、当時、岩手沢城(宮城)まで出て来ていた徳川家康より使者がみえた。
実は、この左遷(させん)は既に徳川家康が喰っている。祖父代々、辛苦を重ねて築き上げた駿河(静岡)の土地から、荒漠たる原野の関東へ移されていたのだ。
この政宗と家康の出会いは、政宗へ大きな影響をのこすことになる。
家康から、政宗への言葉は「この度のご加封、いよいよ芽出度うござる。」という賀詞だった。
政宗はムッとし聴き返す。
すると、政宗の思案とは異なり、今回の奥州編成案は、三成の小細工ではなく、家康の措置だというのだ。
家康は、江戸へ移されたことを、神仏が与えてくれたご機会だといい、それは政宗へも当てはまると言う。
江戸と同様に、この宮城は中央へ広い平野である大崎耕地をもち、右へ太平洋が開け、左へは山もある。海・山・里と、富は無尽蔵。しかも、葛西には金山もあった。
奥羽の中央へ縦に連なる奥羽山脈は、その右に位置する宮城を積雪から守り、しかも検地の届いていないこの外れた土地には、まだ新田開発という伸びが、随分と残されているのだった。
事実、一反三百六十坪の換算では五十八万石だったが、三百坪で換算すると六十七万石にまで上昇する。
家康は、江戸を二百数十万石くらいには伸ばせるといい、宮城ならば百二十万石くらいには即伸びる土地だというのだ。
政宗は黙りながらも、頭の中のそろばんが、少しづつ動き出す。
「すると徳川殿は、わざわざ政宗へ新領地を与えてくだされたか?」
「おことはただの竜などではなく、何かある度に走りだそう。
氏郷もまた獣。そうなると、なかなか奥羽は納まらぬ道理。」
(家康の魂胆はここにある。奥州が納まらねば、落ち着いて関東の経営などにはあたれない。)
少し唸りながら、政宗また黙っている。
(---先は長いのだ。十年ここで腰を据えて、人生の計画を練り直してみるか。)
この後、朝鮮出兵が待ち受けている。そして何よりも、この少し前、秀吉が熱愛していた一粒種の鶴松丸が、八月五日、ついに三歳のはかない生涯の幕を閉じていた。
秀吉の乱政と、その裏で糸を引く三成。
氏郷などと、へたな"いざこざ"を起こしてなどいられず、目の前の強大な時の流れが、渦を巻いて待っているのだ。
こうして、政宗の移転は決まり、家康も、三成も、長政も、秀次も奥羽から去っていった。
岩手沢(いわでやま)を、岩出山と改称し、主城を岩出山城とした政宗は、町民を町ごと移転させ町割りを始める。
そして間もなく、日本中の全ての武将が警戒していた朝鮮出兵の命令が届いた。
「来年早々大軍を引きつれて、明国征伐に出発する。よって軍兵一千五百を引きつれ、即刻上洛せよ。」
正月、政宗は呆然としていた。。。
移転は終わらず、出陣の用意、、、そこへ奥羽の積雪。。。
しかも、移転する家臣の数は、数千などという数ではないのだ。町割りもろくに終わっていない。。。
政宗ならずとも、呆れるの当然だった。。。
画像:岩出山城跡
政宗は十年間この城を居城としている。
そして、仙台城へ移転後は一国一城令により
城ではなく「要害屋敷」として存続。
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