2010年11月22日月曜日

伊達政宗 記(9) 弟 伊達小次郎 斬殺



 秀吉が関白になったということは、日本国中全てが秀吉傘下に入ったことを意味する。

 北条氏政(ほうじょう うじまさ)が小田原征伐と名して征伐されるのも、これを頑なに拒否したからなのだ。政宗の場合そこへきて侵略している。秀吉からは上洛命令すら来ていた。小田原参陣の催促も相次いで届いている。


 実は父輝宗(てるむね)を拉致したのは、この黒川城の敵将だったので、それを口実に上洛しようとはしない。そして、小田原参陣に関しては積雪のため参陣遅延していると答えていた。

 そんな事で秀吉が納得するはずもなく、怒りながらも既に、この小癪(こしゃく)な政宗征伐を水面下で進めていた。伊達傘下の反政宗の武将と内通していたのだ。


 これは秀吉の常勝手段であり、敵を内部分割させて手も付けられない状態の時に、大軍勢にて取り囲みそのまま和議に持ち込み降城させるのだ。
 このように自軍の致命傷を避け、しかも有力な地方の武将を亡くさず懐柔しながら、怪物秀吉は四国・九州を征伐し、破竹の勢いで天下統一をここまで押し進めてきたのだった。


 この場合、政宗の弟 伊達小次郎をもって政宗を毒殺し、現在政宗傘下の武将は反旗を一気に翻し(ひるがえし)伊達勢を蹴散らし、各々が奥羽にて領地をもたされ自立させるという内通だった。


 それで、政宗は弟 小次郎を殺した。

 政宗は毒入りの料理に気付き、その場にいた小次郎を謀反の主人物と知っており、その場で斬殺したと伝えられている。このとき政宗はまだ二十四歳、そして更に若い弟 小次郎。
 これは源頼朝と義経の関係によく似ている。
 実の兄弟とはいえ、現実を理解するには余りにも若い弟だった。



 この少し前に当たる三月一日、関白秀吉は小田原征伐へ京都を発している。
 今や四国・九州を征伐した秀吉の軍勢は、前古未曾有(ぜんこみぞう)の大勢力となっていたのだ。秀吉は小田原征伐後に政宗征伐をするため、いま、小田原目指して北上しているのだった。。。




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