2010年11月22日月曜日

伊達政宗 記(8) 奥州覇王


 四国征伐に続き、関白秀吉の九州征伐は終わった。

 そして中央では、小田原征伐(関東:北条氏政)の準備が進められている。その後に、東北へ徳川家康をも懐柔した、怪物秀吉がやってくる日は迫っているのだった。

 政宗はその時までには、何としても会津・黒川城を盗り水戸(茨城県)まで進出しておきたいと考えていた。それは関白秀吉が小田原征伐へ来た際に、秀吉と対等の立場で、天下の経営に口を出せる実力を確保しておきたかったからだ。


 政宗の黒川城攻めは、戦国史上稀に見る快勝だったといわれている。
 まず、先年の約束(※「虹の架け橋」下記参照)として一部の敵武将を招き込み、黒川城周辺を抱き込んでゆく。そこから更に簡単な戦と内通により勢力を拡大していき、遂には敵将が黒川城を空け渡すことに成功させたのだ。

 黒川城が落ちると、もう他の奥羽の武将の運命は決まってくる。次々と名のある武将までもが、政宗傘下に下り「稀代の英雄」と呼ばれるようにまでなっている。

 それもその筈。

 この頃の政宗の領地は、東は福島県東部より西は新潟県中部、南は福島県南部より北は秋田・山形県一帯、そして宮城県・岩手県の一部までも領地としていたのだ。石高にして二百数十万石。しかも、年齢はたったの二十三歳。



 当然の事だが、関白秀吉からは黒川城侵略の問責がやってくる。即刻の上洛命令を受けることになるのだ。そしてもう1つ、翌年三月の小田原征伐の催促状が届いた。


 遂に今年の政宗の敵は、関白秀吉となっていたのだった。。。



※画像:黒川城(別名:鶴ヶ城・会津若松城)
※余談:この城は、幕末の会津藩士「白虎隊」がいた城。




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