2010年11月15日月曜日

伊達政宗 記(16) 秀吉戦略 7 鶺鴒(セキレイ)の眼



 尾張(愛知) 清洲城。
 秀吉と三成が広間の上段へ出てゆくと、政宗は広間の隅でイビキをかいて眠りこけていた。あわてて三成が近寄り、揺り起こすのと同時に秀吉の怒号が響きわたる。
 カッ!と隻眼を見開いた政宗は、今のはイビキではなく「竜の呼吸」であって決して眠ってはいない旨を説明すると、秀吉は今にも吹出しそうな笑いを必死に堪えながら、問責は始まっていった。

 例の一揆扇動の密書を政宗の前へ出し、秀吉は上半身を乗り出して問詰める。
 筆跡も花押も寸分狂わぬこの密書を、政宗は偽の密書だと言い、「鶺鴒の眼」(※下記にて解説)と言われる針の穴が空いてないことを説明する。全くもって臭いこの説明だが、一応の言い訳の筋は立ってゆくのだ。
 よって政宗には何の落度もなく、その歯痒さがゆえ堂々と磷付台をこしらえて、常に生命を危険にさらす政宗の『死の覚悟』を世に知らしめながら上洛してきたことになる。その釈明と引き換えに、政宗は、京の聚楽第(じゅらくだい)への屋敷建造の許可を得るのだ。

 「針の穴を通って生命が助かる・・・あのここな、伊達めが。」
 そこまで言って、秀吉は首をすくめて笑い出していた。 

 今日まで、ついにわからないのは、政宗は初めからこうした場合にそなえて、書状へ針の穴を空けてあったのかどうか? それは、政宗が白状しない限り永遠に真実は確認できないことではあるが。
 秀吉は半信半疑なのだが、それが、政宗の詐欺であってもよいと考えている。これだけの才覚を、殺さず生かしておいて活用すべきだと考えるところに、秀吉という人物の味があった。

 すべては政宗の計算どおり・・・・・。

 こうして、三月二日には従四位下に叙せられ、越前守を兼ねて羽柴の姓を許された。
 したがって、天正十九年(一五九二)という年は、羽柴越前守 政宗にとってその地位と実力が、ようやく安定していった開運の年といってよく、その反対に不出世の大英雄と目されて来た豊臣秀吉にとっては、その運命は絶頂を越えて、いよいよ晩年の凋落期(ちょうらくき)に入っていく年だった。

 京の新邸で、妻愛姫(めごひめ)と過ごす政宗は、五月二十日に米沢に帰着しているのだが、在京中にはっきりと、終わっていたと思っていた「戦国」が、又脈々と甦って来ているという驚きと期待を、受取ることになる。

 この屋敷建造あたりより、伊達という名前が、北の外れの田舎武将から天下へその名を知られる全国規模の武将へ飛翔していったと言えるだろう。。。




画像:伊達政宗自筆書状による花押「鶺鴒」
仙台市博物館所蔵 伊達家寄贈文化財

※鶺鴒の眼:伊達政宗は、花押をセキレイという鳥の形に見えるようにしたためていた。それに、偽造防止のため、本物にだけ眼の部分に針で小さな穴を空けてあると釈明している。

伊達政宗の文章は三〇〇〇点以上確認されており、その内、政宗直筆の書状は一〇〇〇点を超える。しかし、その中に針の穴が空いている書状は一点も見つかっていない。




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