2010年11月23日火曜日

伊達政宗 記(7) 二十歳


 秀吉・家康が協定したことは、関東征伐の意味を含んでおり、関東の北条氏政(ほうじょう うじまさ)は、関東を固め直して待ち受ける形を作り始める。

 すると北関東と南東北の武将は、北より伊達・南より北条と南北より敵を受ける形になるのだ。当然、北の政宗だけへ手を廻していられない状態となってゆく。

 これに乗じて政宗は、米沢城より南に位置する難攻不落と言われた二本松城を、城囲いだけで手に入れる
。だが、まだ政宗は三方敵に囲まれている状態だった。
 全てを賭けてぶつかって行けば、難なく一年以内にも踏み潰せる相手ではあったが、政宗の目的は北などにはなく南にあるのだ。


 中央では既に秀吉が、世界一と言われる大阪城を築き、関白に任じられていた。
 秀吉の天下統一が着実に進められてゆく。

 武将が関白に任じられたという事は、領地を侵略するという戦国的経営が封じられた事を意味する。
 戦国人として知己戦略を自得しながら、一方で中央の推移を敏感に感じている政宗の焦りは募っていく。この翌年に、「大崎攻め」が開始され一端北との戦に終点を打ち、南への進出を開始していくのだ。


 この二十歳から二十二歳までの二年間は、後の人間政宗を大きく伸ばす試練の時期に当たっている。父輝宗や多くの重臣を失うという試練にすら、ひた向き合うこの若者は、この二年間を乗り越え更に大きく伸びようと立ち向かってゆくのだった。。。


※画像:二本松城 難攻不落の山城として築かれている




※画像:二本松城 そびえ立つ石垣の様子



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