2010年11月18日木曜日

伊達政宗 記(13) 秀吉戦略 4 蒲生氏郷


 奥州仕置により、現在の宮城県北部と岩手県南部一帯(三十万石)には新領主として中央の武将・木村氏が配置された。

 これは、父輝宗(てるむね)の代より伊達家に従属していた大崎義隆(おおさき よしたか)の旧領地であり、新領主に対して旧家臣団らの強い反発があった。
 十月十六日、その旧家臣が、領民と共に蜂起して岩手沢城(いわでやまじょう)を占拠したのを皮切りに、佐沼城(さぬまじょう)登米城(とめじょう)そして古川城(ふるかわじょう)へと一揆は領内全土へと拡大してゆくのだ。
 そしてそれは、秋田県にも山形県にも拡大してゆく。
 十一月十六日、秀吉はこの一揆鎮静の命を、政宗と蒲生氏郷(がもう うじさと)へと下した。
 だが、政宗と氏郷はこの「葛西大崎一揆」を鎮静しながらも、功名争いという形で対峙してゆくのだった。


 蒲生氏郷はこの度の奥州仕置により、政宗より没収した黒川城と会津 四十二万石を与えられた中央の武将。年齢は政宗より十一歳年上の三十五歳。

 この織田信長の婿は、戦国武将中ではまず抜群の秀才といえる。

 信長が彼の才能にほれて、十二歳の姫を与え近江の日野の城主に取り立てたのが十四歳のとき。
 頭脳明瞭、放胆なところがあって知略に富み、それに戦上手。信長が本能寺に倒れてからは、秀吉に従って明智を攻め、更に「小牧・長久手の戦い」では家康と対峙し、そして伊勢に松坂城を築城。九州征伐では勇名をとどろかせ、小田原征伐にも従軍している。
 つまり、もしこの氏郷を中央の近江や伊勢へ残しておけば、織田の旧臣や親族とともに決起され秀吉の立場が危うくなる恐れが十二分にあるだ。


 秀吉はこの時期の政治政策に、「刀狩り」と「太閤検地」を行っている。
 農民より刀を取上げ、三百六十坪(歩)を一段歩としてある日本伝来の段別性(だんべつせい)を、三百坪に改変してしまったのだ。
 その分年貢の負担が増すことになる。当然その不満は一揆という形を作り出し、その中で領主は、政策を施し領民を治めそして土地を治めてゆかなければいけなくなるのだ。

 この秀吉の政治政策には、一揆を揺動し、秀吉が直接手を下さずに天下統一後の武将から、領主として相応しい(ふさわしい)才覚をもった、器量人と無器量人を選別してゆくという意味が、密かに隠されていたのだった。。。



※画像:豊臣秀吉所用 馬藺後立付兜(ばりんうしろだてつきかぶと)

九州征伐の際、豊臣秀吉着用。



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