(媚びたくらいで落つる奴は、落つるがよいのだ。)
これが政宗の考えだった。
(泰平時の人間の敵は、おのれの中にしか無くなるのだ。それは弱点よ。それに気付かぬような"うつけ"など、さっさと旅など切り上げて、あの世で休んでいるがよいのだ。)
太鼓を打ち終わった政宗は、カラリと鼓を舞台に投げ捨て、会釈もせずズカズカと舞台を降り、そのまま家光の前に平伏した。
その動作は異様であって異様でなく、無礼であって無礼ではない。怒りとも見え、競いとも見える動作がみな一つの鮮やかな演技になりきっている。
こうして猿楽は無事に済み、薄暮(はくぼ)からは寛いだ大酒宴になっていった。
大酒宴の趣向については、誰もが派手な伊達家の無礼講を予期していたが、それは意外に質素なものであった。出て来た肴は、作り花をあしらった州浜(すはま)のようなもの二品ばかりで、盃は素焼きであった。
これを格別の酌人もなく、銘々が手酌で飲みながら歓談する趣向であったのだ。
「これは伊達家の家例によるもの。」
そう言って政宗は最後の趣向へ取りかかる為、支度部屋へ引き下がったのだが、その室内(竹林の間)では強烈な色彩がうねりを上げていた。
襖いっぱいに描かれた青の竹林のあちこちに、この世のものとも思えぬ手弱女(たおやめ)たち二十人あまりが、思い思いの姿勢で艶冶(えんや)な衣装を身につけだしている。
いや、それは手弱女ではない。それぞれが適宜に胸に厚味を加えた、十五歳から十七歳の描いたような美少年ではなかったか…。室内には脂粉の香りがあふれている。
実は、この夜の野郎舞こそ、伊達政宗が、将軍家光にささげる最後の贈物だったのだ。
その時の記録によれば第一番目は、当時流行の"隆達"の今様に合わせて踊る鳥鐘おどり。
二番目は、不思議な性の錯倒をおぼえさせる尼僧の恋をあしらった舟踊り。
三番目は、蛍を追う色模様の団扇返し。
四番目は木曽おどりで、五番目は遊里の四季をうたいあげた暦おどりであったらしい。
若い女性から受取るものと全く違った妖気のような色香に当てられ、この美女が同性なのだと思うだけで、全身の精気を抜き取られてゆくような気になってくる。
家光は、静かな酒のあとで、この破天荒な夢幻境の幕をあけられ、それこそポカンと口を開いて見惚れている。
坂部五郎右が伜以来の男色はまだ止まず、思いあまった春日局が、伊勢神宮再建のお礼言上にやって来た慶光院の尼まで、そのまま江戸に止めて、衆道を正常の交りに返そうと、お癖直しを計っているという時に、何という意地のわるい、邪魔をしてゆく政宗であろうか…?
しかし、政宗は真剣なのだ。
(相手を陥れる時には、相手の好むものを以てもてなすものよ。酒好きには酒を、黄金好きには黄金。女子好きには女子。こうして堕つる者はふるい落し、滅びる者は滅びさせる。さもないと、泰平の天下というは、肥料が利き過ぎてすぐに人は腐ってゆく。その薬というは外にない。何を楽しんでよいのやら、何をありがたいと思うてよいのやら、さっぱりわからなくなった奴からさっさと躓(つまづ)かせる・・・躓いた奴を見ると、人間ハッと吾に返る。それは将軍家とて同じことよ・・・さて、今宵この中からあの青二才が何奴を拾うてゆくか?…)
しかし、この夜の政宗のかけた罠に、家光が、そのままかかったと見るのはまだ少しばかり早計だった。
家光も又、何ぞ最後の趣向があると思っていたらしく、褒美の品を運ばせてきた。
褒美は家光好みの、遠山霞み加賀小袖二重ね宛であった。
「さすがは伊達中納言。安心して地獄へでも極楽へでも参るがよい。馳走の遺言、大義であった。」
こうして政宗が、梟雄(きょうゆう)と言われた人柄に珍しく、畳の上で息を引取ることになったのは、この翌年の五月二十四日の江戸屋敷であった。
恐らく、終焉の地には仙台の若林の隠宅を選びたかったであろうが、それを敢えてしなかった。仙台の政宗ではないと、思い直して出府したのに違いない。
そうなると家光も、この大功臣を親しく見舞わずにいられず、五月二十一日に侍医と重臣たちを引きつれて伊達の江戸屋敷へ政宗を見舞った。
政宗が息を引きとったのはそれから三日目---。
この頃には、食物は少しも咽を通らなかったが、しかし、決して人前では病臥はしなかった。
家光が見舞った時も同様で、柱によりかかったまま迎えた。
息を引きとるまで、政宗は、正夫人の田村氏も姫たちも、決して病室には入れなかった。
男一匹の生死は婦女子に見せるものではない。婦女子にわからぬところで生き抜いて来るものゆえ、この厳しさを見せぬのが男の労りなのだと言って譲らなかった。
その後、家光は江戸で七日、京都で三日の間殺生や遊興を禁止する命令を発している。
これは徳川御三家以外では異例のことであった。
「乃功(だいこう)があと二十年早く生まれていたら…」
と、天下に野心を持ち続けたむくつけなき伊達男(ダンディズム)の元祖政宗は、その後も家光や諸大名の会話をしばしば賑わせた、、、
「伊達政宗記 完」
画像:瑞鳳殿(ずいほうでん)
伊達政宗 墓所 仙台市青葉区
伊達政宗 墓所 仙台市青葉区
伊達政宗 辞世の句
曇りなき 心の月を先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
(先の見えない暗闇の中を、薄明るい月の光を頼りに道を進むように、戦国という先の見えない中、自分が信じた道をただひたすら歩いてきた一生であった。)
遺訓
一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。
0 件のコメント:
コメントを投稿