陸前牡鹿群、月の浦(現在の宮城県石巻市)。
ここで建造された大船は、長さ十八間、横幅五間半、高さ十四間一尺五寸と記録されている。
外廻りを黒く塗っていたので黒船と呼ばれ、すべてが鉄で出来ているかのような威容だった。これが、ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号。
これに乗組んだ人員は百八十人余人とも二百人ともいわれている。
その黒船が、船台から水の上へ浮かべられたのが七月二十三日、出航が九月十五日。
政宗は、この慶長遣欧使節へは支倉常長(はせくらつねなが)を人選し、ローマ法王へ手紙を持たせている。この他に常長へ、軍艦を五隻すぐさま大阪湾に直行させて頂きたい旨をことづけた。そうして、イギリス勢力を一掃し、天主教を守りぬこうと訴え出る。
この軍艦にて日本の覇権を一挙に奪い取ろうというのだ。
政宗には、どんなに家康が苦心してみても、大阪の陣は避けられないと睨んでいる。大阪方にはこの事態を把握し収拾できる程の人物が見当たらない。
それに比べて、家康は駿馬に値する男子を多く残している。それが今、徳川政権内部の派閥対立へ影響しているとはいえ、結城秀康にしても松平忠輝にしても、才覚はまず抜群だった。
一人でも豊臣秀吉にこれに値する男子が生まれていたらと思うと、人生の不思議さを感じずにはいられない。
予定どおり九月十五日に船を出したが、若い頃ほど嬉しくはなかった。
このぶんでは、軍艦が五隻やって来て、天下がそっくり自分の懐中に転がり込んできたところで、さして嬉しくはないのかも知れない。
それにはむろん、訳の分からぬまま動いてゆく若い頃の人生ではないということもあるが、それ以上に家康が自身の死を間近と悟り、政宗へ天下を任せるような発言をこの頃よりしているからだ。
(将軍もダメ、秀頼もダメと写れば、何時でも二人を倒して天下を取られよ。)
この皮肉とも、老人の絵空事とも思える家康の発言は、南蛮の件が見抜かれているようでもあり、隠しきれているようでもある。
しかも政宗は、家康より高田城(新潟県)の築城をこの頃に任されていた。一方では出航の準備と築城準備。それにしても、家康の人使いは政宗に限らず荒かった。
この築城も、大阪方への警笛を意味が含まれていた。この泰平の世で、築城という戦の支度をして見せれば、大阪方もいい加減気が付くというもの。
とにかく、こうなれば、大坂攻めをあまり急がれても困る。船はまず呂宋(フィリピン)へ着き、ここからメキシコのアカプルコの港を目指して太平洋を渡る。そこからスペイン目指して大西洋を渡ってゆくのだ。
いうまでもなく、これが日本人はじめての太平洋・大西洋横断となる。
政宗の計算では、大坂攻めは早くても来年の冬と睨んでいる。家康の忠臣である三河武士は元来百姓育ち。稲刈りが終わらない内は、もったいなくて兵は動かせないという信仰に近い遠慮をもっていた。
それが「---道義立国」などという律儀な夢を見ているのだから、家康がその禁を破る筈は先ずない。
その意味では、大阪冬の陣とスペイン訪問とは、まさに寸刻を争う速度で進行していく。
もし、冬中で間に合わないとすれば、いっぺん講話を結ばせて、中休みを入れ待ってみればよい。大阪城を遮二無二(しゃにむに)攻撃したのでは、犠牲が多いと家康に献言すれば違和感もない。
何分家康は老齢、一年待つのは無理であろう。ならば、田植えの終わる夏まで延ばせれば充分。
大阪攻めを二度にわけて行うという着想は、何とも愉快な政宗ならではの着想ではないか!
最初は冬の陣。
続いて夏の陣。
その間にあの大阪城の総濠を埋めてしまうのはどうだろうか?
そうすれば、あの城に籠って戦ってみたいという群小軍師どもの妄想の夢も、一気に埋没させることが出来る。
この半年が、或いは天下を政宗に献ずるか否かの岐路になるかも知れない---。
そうなってくると、政宗にとって目下の急務は、大阪の城内事情を知ることだった。大阪方からバカが現れて、戦の口火を切られたのでは元もこもない。家康が本気になって総動員をかけていったら、大阪方に勝算などあろう筈はないからだ。
一方、大阪城では今、切支丹信者と、徳川政治にあきたらない牢人どもが、静かな入江のように城内に流れ込んでいた。。。
ここで建造された大船は、長さ十八間、横幅五間半、高さ十四間一尺五寸と記録されている。
外廻りを黒く塗っていたので黒船と呼ばれ、すべてが鉄で出来ているかのような威容だった。これが、ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号。
これに乗組んだ人員は百八十人余人とも二百人ともいわれている。
その黒船が、船台から水の上へ浮かべられたのが七月二十三日、出航が九月十五日。
政宗は、この慶長遣欧使節へは支倉常長(はせくらつねなが)を人選し、ローマ法王へ手紙を持たせている。この他に常長へ、軍艦を五隻すぐさま大阪湾に直行させて頂きたい旨をことづけた。そうして、イギリス勢力を一掃し、天主教を守りぬこうと訴え出る。
この軍艦にて日本の覇権を一挙に奪い取ろうというのだ。
政宗には、どんなに家康が苦心してみても、大阪の陣は避けられないと睨んでいる。大阪方にはこの事態を把握し収拾できる程の人物が見当たらない。
それに比べて、家康は駿馬に値する男子を多く残している。それが今、徳川政権内部の派閥対立へ影響しているとはいえ、結城秀康にしても松平忠輝にしても、才覚はまず抜群だった。
一人でも豊臣秀吉にこれに値する男子が生まれていたらと思うと、人生の不思議さを感じずにはいられない。
予定どおり九月十五日に船を出したが、若い頃ほど嬉しくはなかった。
このぶんでは、軍艦が五隻やって来て、天下がそっくり自分の懐中に転がり込んできたところで、さして嬉しくはないのかも知れない。
それにはむろん、訳の分からぬまま動いてゆく若い頃の人生ではないということもあるが、それ以上に家康が自身の死を間近と悟り、政宗へ天下を任せるような発言をこの頃よりしているからだ。
(将軍もダメ、秀頼もダメと写れば、何時でも二人を倒して天下を取られよ。)
この皮肉とも、老人の絵空事とも思える家康の発言は、南蛮の件が見抜かれているようでもあり、隠しきれているようでもある。
しかも政宗は、家康より高田城(新潟県)の築城をこの頃に任されていた。一方では出航の準備と築城準備。それにしても、家康の人使いは政宗に限らず荒かった。
この築城も、大阪方への警笛を意味が含まれていた。この泰平の世で、築城という戦の支度をして見せれば、大阪方もいい加減気が付くというもの。
とにかく、こうなれば、大坂攻めをあまり急がれても困る。船はまず呂宋(フィリピン)へ着き、ここからメキシコのアカプルコの港を目指して太平洋を渡る。そこからスペイン目指して大西洋を渡ってゆくのだ。
いうまでもなく、これが日本人はじめての太平洋・大西洋横断となる。
政宗の計算では、大坂攻めは早くても来年の冬と睨んでいる。家康の忠臣である三河武士は元来百姓育ち。稲刈りが終わらない内は、もったいなくて兵は動かせないという信仰に近い遠慮をもっていた。
それが「---道義立国」などという律儀な夢を見ているのだから、家康がその禁を破る筈は先ずない。
その意味では、大阪冬の陣とスペイン訪問とは、まさに寸刻を争う速度で進行していく。
もし、冬中で間に合わないとすれば、いっぺん講話を結ばせて、中休みを入れ待ってみればよい。大阪城を遮二無二(しゃにむに)攻撃したのでは、犠牲が多いと家康に献言すれば違和感もない。
何分家康は老齢、一年待つのは無理であろう。ならば、田植えの終わる夏まで延ばせれば充分。
大阪攻めを二度にわけて行うという着想は、何とも愉快な政宗ならではの着想ではないか!
最初は冬の陣。
続いて夏の陣。
その間にあの大阪城の総濠を埋めてしまうのはどうだろうか?
そうすれば、あの城に籠って戦ってみたいという群小軍師どもの妄想の夢も、一気に埋没させることが出来る。
この半年が、或いは天下を政宗に献ずるか否かの岐路になるかも知れない---。
そうなってくると、政宗にとって目下の急務は、大阪の城内事情を知ることだった。大阪方からバカが現れて、戦の口火を切られたのでは元もこもない。家康が本気になって総動員をかけていったら、大阪方に勝算などあろう筈はないからだ。
一方、大阪城では今、切支丹信者と、徳川政治にあきたらない牢人どもが、静かな入江のように城内に流れ込んでいた。。。

画像:ローマにて描かれた支倉常長とサン・ファン・バウティスタ号

画像:支倉常長像 仙台市博物館所蔵 国宝

画像:ローマ市公民権証書 仙台市博物館所蔵 国宝
※ローマ市議会が支倉常長に与えた証書。正式に市民権を与えるとともに、常長を貴族に列するという内容が羊皮紙(ようひし)に金泥を用いて書かれている。

画像:伊達政宗からローマ法王にあてられた書簡
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