2010年10月27日水曜日

伊達政宗 記(37) 大阪の役4 天下大乱の火


 大船建造は、城普請(しろぶしん)同様に厳禁とされていた。

 大御所家康は、今、どうして穏やかに大阪城から秀頼を、他の場所に移すかで苦心惨憺(さんたん)していた。それに岡本大八事件(※下記参照)もあり、到底南蛮のことまで思案を割く余裕などはなかったのだった。


 新年二度目の登城挨拶を済ませた政宗は、将軍秀忠に休息の間での拝謁を願い出る。
 言うまでもなく、秀忠より大船建造の許可を得ておくため。
 そこで、政宗は将軍秀忠へ一石五鳥の妙案を提案してゆく、、、

 まずは、ビスカイノの洋船を損傷させ、沿線の測量をさせず、改めて洋船建造をさせるというもの。ここで洋船技術をそっくり学び取る。これで一石二鳥。
 洋船建造の技術は、先に渡来していた英人ウイリアム・アダムスに依って僅かに伝えられてはいるものの、まだ手探りの状態だった。
 その新しい大船にて、ビスカイノを本国を追い返す引揚船とすること。これで一石三鳥。
 ビスカイノは鉱山業の分配を巡り、家康と和解できずにいた。金掘りも成立しない、船も壊されるとなれば、ここで引揚げるに違いないと踏むのだ。
 そしてその船にて、天主教の大本山であるローマへ、宣教師ソテロを派遣し法王との直接通路を開かせること。これで武力による日本侵略を封じるという手段。これで一石四鳥。
 更にはローマばかりでなく、フィリップ王への使者を遣わし南蛮国と対等の貿易を計ってゆくこと。これで一石五鳥となる。
 国内政治で精一杯だった秀忠にとっては、政宗のこうした進言は、虹の橋を仰ぐようであったに違いなく、感嘆の声を上げて承諾していった。


 将軍秀忠が苦心していた国内政治といえば、政宗にとっても決して他人事などではなく、一つに切支丹問題があった。
 実は最近、家康のいる駿河城内にて九度の放火があり、その犯人は切支丹の若い女子であったのだ。

 いつの世にも、信仰には現世の利益を度外視して狂いだす要素が多分にあり、それが他の不満と結びつくと、全国的な一揆の口火にもなりかねない。
 いうまでもなく忠輝夫妻は信者であったし、伊達家の奥から仙台藩の内部まで、信者は日毎に増えてきていた。
 一国ともなれば、不平や不満の徒が全くなくなるということはなく、うまくそれらが煽動され、大阪城は今、願ってもない騒乱の拠点となっているのだ。しかもその矛先は打倒徳川。

 その大阪城から何とかして秀頼を出そうと、家康は苦心していた。決して豊臣を倒そうなどというのではない。
 しかし、そうした真意を汲み取れるほどの人物は豊臣家の重臣の中には一人もいなく、だからといって、出てゆけなどと言ったら非難は家康に集中しよう。それがどんなに家康の義理だったとしても、世間の知識レベルはそんなに高いところには無い。
 逆に小型の忠臣や野心の徒を憤激させて、反徳川の火勢を煽るのが落ち。


 それともう一つ、徳川政権内部で武功派と文治派の対立があり、派閥対立や階級内の憎悪などが勃発していた。
 将軍秀忠の政権有力者である大久保忠隣と、大御所家康の重臣である本多正信・正純父子とが対立していたのだ。それが岡本大八事件を経て一気に沸騰していた。
 むろん外様大名ではあったが、副将軍と言われている政宗へも、大久保忠隣より本多父子を追放するクーデターの協力の相談はあったのだが、政宗はそれを断っている。

 十年前であったなら「天下大乱の火を点けろ!」などと眼の色を変えて忠隣を操縦したかも知れない。
 しかし、今はそうではい。
 政宗には別の大博打、南蛮雄飛が着々と進行しているからだ。。。



 ※岡本大八事件:慶長十四年二月、マカオに寄港した有馬晴信の朱印船の水夫が、酒場で南蛮人と乱闘し水夫六十名ほどが殺害され、さらに積荷まで略奪される事件が起こる。家康は報復を命じ、南蛮国船を沈没させる。これに関与していた岡本大八に、朱印船の偽造事実や賄賂が発覚し、有馬晴信と共に処刑。
  両者が切支丹だった為、切支丹の倒幕心が煽られていった。


 ※余談:この事件で、切腹ではなく処刑が選ばれた理由は、切支丹は自害すること教えの中で固く禁止されていた為。



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