水戸の修史事業が、家康の遺言ともいうべき「公家法度」に記されている事を、的確に指摘している歴史評論書は極めて少ない。
しかし、これを見落としたのでは江戸時代は、背骨となすべき伝統を持たない偶然の「---泰平時代」に過ぎなくなる。
人間にしても時代にしても、背骨が無ければ決して自立は出来ないものだ。
今日人類は、戦争の最大原因をなしている国家主義のエゴイズムを払拭しようとして、どうすれば国境を解消出来るかに頭を悩ましている。
そして、その結果、三〇〇年にわたって、異国を侵しもしなければ、断じて侵されもしなかったこの歴史に改めて眼を凝らしだしている。
やがてこの地球から国境が取り払われ、世界国家が出来上がる日があったなら、当然のことながら、江戸時代は、改めて新しい脚光を浴びねばならないことになろう。
何れにせよ、それは、この物語の中では未来のこと…ここで伊達政宗記へ話を戻してゆく。
天下などというものは、それを突き崩そうと考える者があれば、まことに隙だらけの他愛のないものであった。
しかし、生まじめに、足りない人間どもを完成させ、そこから戦乱を排除しながら、筋の通った泰平を維持してゆこうとすれば、これほど手数のかかる難しいものは無かった。見ようによれば、誰も彼もみな完全ならざる未完成品で、しかもそれが、自分のことだけ考えて生きている。
いわば皆の世迷い言を聞いているのと全く同じだ。
将軍秀忠が、政宗へ
「自分は大御所となり、目の黒い内は三代を見守ってやるべきではないか。」
という相談を言われた時に、政宗はチクリと胸を刺された気がした。
その時政宗も又わが家を、息子忠宗に譲っていなかったからだ。
これは、父家康の例にならって、自らは将軍職を退き、大御所として家光に実際政治の指導をしておかなければならないという秀忠の覚悟であった。
突然に、父が逝った(みまかった)後の将軍職では、家光は兎に角、その側近どもが不慣れの失敗を免れ得まい。
政宗には秀忠の心内がハッキリと分かった。つまり秀忠は政宗へ、大御所、将軍家の翌年の上洛の先駆を頼んでいるのだ。
秀忠と家光は別々に江戸を発った。
秀忠が京都に着いたのが六月八日。参内したのは六月二十五日。
その三日後の二十八日に家光は江戸を発って京へ向かった。両者が二条城で再会したのは七月十五日。
こうして政宗が秀忠の側にあって、この父子の問答に答えながら、それとなく、家光の人物器量を観察してみたのは この時が初めてだった…。
家光は、政宗が、噂を通して知っている以上に複雑な性格の悍馬(かんば)らしかった。
度量は家康ほどに大きくはなく、秀忠ほどに律儀でもなさそうであった。癇癖(かんぺき)だけは両者にまさり、急ぎ込むとはげしく叱った。総体的に言えば、今は飛騨に流されている上総介忠輝と、これも我儘が爆発して豊後萩原に蟄居(ちっきょ)させられてしまった越前の松平忠直の、真っ向ひたむきな奔放さに通じるものが濃く出ている。
当年数え年の二十歳なのだから、衒い(てらい)と気負いは人一倍はげしく、時々バカ丁寧に道を訊いたりするかと思うと、時に居丈高になっりする。
(大体は、まあ、こんなものであろう)
二十歳といえば政宗が、父の輝宗を殺害された翌年に当り、二本松を奪った年に当たっている。
その若僧が、いよいよこの七月二十七日には参内して、征夷大将軍に補され、正二位の内大臣に任命されることになっている。
(こんなものを滅茶苦茶にするのはわけはない…)
時々、ふっと悪戯ごころが首をもたげる己の根性に苦笑した。
(---第一、まだ甘えたがっているのだ…)
こうした人間を暴君に仕上げてゆく気ならば、半年とはかかるまい。酒色をすすめるのが、いちばん手っ取り早そうだったが、勝気の癇癖持ちゆえ、武道に慢心させる手もあれば、勇ましい武辺噺を朝晩すすめて戦好みにする手もあった。
せっかくの大将軍ゆえ、豊臣太閤も眼玉を剥くような、巨大な居城を造れなどといったら、それこそすぐに飛びついて来るだろう。
男色をすすめて寵臣(ちょうしん)を溺愛させるもよし。
(二十歳というと、こんなに隙だらけの未熟なものであろうか…?)
冒険もしてみたいし、大人の真似もしてみたい。要するに人間の欠陥のすべてを、鼻のさきにひけらかしているのが、その独りよがりの若さに他ならなかった。
水戸頼房が話によると、側近の忠義一途な青山伯耆がどうやら家光を暴君にしかねない。この時代錯誤の古風な男が、頭の切り替えが出来ぬらしく、暴君の煽り手に出来てるらしいのだ。
政宗は思わず又ニヤニヤと笑ってしまった。
この乱世の芽もほどほどに摘んでおかぬと、元和偃武(えんぶ)のあとで、信長公に又々出てこられてもハタ迷惑。
その青山伯耆のことは、水戸頼房より伊達政宗に事は任されていた。
(それにしても、浮世とは又、何とめまぐるしく変転してゆくものだろうか…?)
家光の時代ともいうべき寛永元年(一六二四)は、二月三十日に改元されたのだが、この年ほど、時の流れを痛感させて、多くの戦国人の死んでいった年は無かった。
黒田長政は、この前年の八月四日に五十六歳ですでに鬼籍に入っていたが、翌寛永元年には二月二十日に里見義定が五十九歳で亡くなったのを皮切りに、四月二十九日には、名所司代で鳴らした板倉勝重が亡くなり、五月十八日には松平忠良が没していった。
宣教師のソテロが、密かにマニラから日本国に潜入し、神を慕うがゆえに長崎で捕えられて刑せられたのもこの年の七月だったし、信濃に移された福島正則が六十四歳で配所にその生を終ったのもこの年の七月十六日だった。
豊臣太閤夫人の高台院は、九月六日に豊臣家唯一の生き残りとして薨じ、鍋島忠茂は八月に、小笠原忠政は十月にみまかっている。
年号の変わる頃には、特に人間の交替もはげしく目立つのかもしれない。
朝廷では女御の徳川和子が、その前年十一月十九日に、後の明正天皇(女帝)を挙げさせられているので、その喜びと前後して、将軍秀忠の世代は幕をおろしていたと言ってもよい。
その内親王御降誕の一月ほど前に、武蔵岩規城主の青山伯耆守忠俊は、いったん封を収められて、上総大多喜に隠棲を強いられていた。このことは政宗の意見よりも、春日局の意見の方が、大きく家光を動かしていたのだが、この青山忠俊の追放が、秀忠の世代の幕をおろすきっかけになったのだと言ってよかった、、、。
しかし、これを見落としたのでは江戸時代は、背骨となすべき伝統を持たない偶然の「---泰平時代」に過ぎなくなる。
人間にしても時代にしても、背骨が無ければ決して自立は出来ないものだ。
今日人類は、戦争の最大原因をなしている国家主義のエゴイズムを払拭しようとして、どうすれば国境を解消出来るかに頭を悩ましている。
そして、その結果、三〇〇年にわたって、異国を侵しもしなければ、断じて侵されもしなかったこの歴史に改めて眼を凝らしだしている。
やがてこの地球から国境が取り払われ、世界国家が出来上がる日があったなら、当然のことながら、江戸時代は、改めて新しい脚光を浴びねばならないことになろう。
何れにせよ、それは、この物語の中では未来のこと…ここで伊達政宗記へ話を戻してゆく。
天下などというものは、それを突き崩そうと考える者があれば、まことに隙だらけの他愛のないものであった。
しかし、生まじめに、足りない人間どもを完成させ、そこから戦乱を排除しながら、筋の通った泰平を維持してゆこうとすれば、これほど手数のかかる難しいものは無かった。見ようによれば、誰も彼もみな完全ならざる未完成品で、しかもそれが、自分のことだけ考えて生きている。
いわば皆の世迷い言を聞いているのと全く同じだ。
将軍秀忠が、政宗へ
「自分は大御所となり、目の黒い内は三代を見守ってやるべきではないか。」
という相談を言われた時に、政宗はチクリと胸を刺された気がした。
その時政宗も又わが家を、息子忠宗に譲っていなかったからだ。
これは、父家康の例にならって、自らは将軍職を退き、大御所として家光に実際政治の指導をしておかなければならないという秀忠の覚悟であった。
突然に、父が逝った(みまかった)後の将軍職では、家光は兎に角、その側近どもが不慣れの失敗を免れ得まい。
政宗には秀忠の心内がハッキリと分かった。つまり秀忠は政宗へ、大御所、将軍家の翌年の上洛の先駆を頼んでいるのだ。
秀忠と家光は別々に江戸を発った。
秀忠が京都に着いたのが六月八日。参内したのは六月二十五日。
その三日後の二十八日に家光は江戸を発って京へ向かった。両者が二条城で再会したのは七月十五日。
こうして政宗が秀忠の側にあって、この父子の問答に答えながら、それとなく、家光の人物器量を観察してみたのは この時が初めてだった…。
家光は、政宗が、噂を通して知っている以上に複雑な性格の悍馬(かんば)らしかった。
度量は家康ほどに大きくはなく、秀忠ほどに律儀でもなさそうであった。癇癖(かんぺき)だけは両者にまさり、急ぎ込むとはげしく叱った。総体的に言えば、今は飛騨に流されている上総介忠輝と、これも我儘が爆発して豊後萩原に蟄居(ちっきょ)させられてしまった越前の松平忠直の、真っ向ひたむきな奔放さに通じるものが濃く出ている。
当年数え年の二十歳なのだから、衒い(てらい)と気負いは人一倍はげしく、時々バカ丁寧に道を訊いたりするかと思うと、時に居丈高になっりする。
(大体は、まあ、こんなものであろう)
二十歳といえば政宗が、父の輝宗を殺害された翌年に当り、二本松を奪った年に当たっている。
その若僧が、いよいよこの七月二十七日には参内して、征夷大将軍に補され、正二位の内大臣に任命されることになっている。
(こんなものを滅茶苦茶にするのはわけはない…)
時々、ふっと悪戯ごころが首をもたげる己の根性に苦笑した。
(---第一、まだ甘えたがっているのだ…)
こうした人間を暴君に仕上げてゆく気ならば、半年とはかかるまい。酒色をすすめるのが、いちばん手っ取り早そうだったが、勝気の癇癖持ちゆえ、武道に慢心させる手もあれば、勇ましい武辺噺を朝晩すすめて戦好みにする手もあった。
せっかくの大将軍ゆえ、豊臣太閤も眼玉を剥くような、巨大な居城を造れなどといったら、それこそすぐに飛びついて来るだろう。
男色をすすめて寵臣(ちょうしん)を溺愛させるもよし。
(二十歳というと、こんなに隙だらけの未熟なものであろうか…?)
冒険もしてみたいし、大人の真似もしてみたい。要するに人間の欠陥のすべてを、鼻のさきにひけらかしているのが、その独りよがりの若さに他ならなかった。
水戸頼房が話によると、側近の忠義一途な青山伯耆がどうやら家光を暴君にしかねない。この時代錯誤の古風な男が、頭の切り替えが出来ぬらしく、暴君の煽り手に出来てるらしいのだ。
政宗は思わず又ニヤニヤと笑ってしまった。
この乱世の芽もほどほどに摘んでおかぬと、元和偃武(えんぶ)のあとで、信長公に又々出てこられてもハタ迷惑。
その青山伯耆のことは、水戸頼房より伊達政宗に事は任されていた。
(それにしても、浮世とは又、何とめまぐるしく変転してゆくものだろうか…?)
家光の時代ともいうべき寛永元年(一六二四)は、二月三十日に改元されたのだが、この年ほど、時の流れを痛感させて、多くの戦国人の死んでいった年は無かった。
黒田長政は、この前年の八月四日に五十六歳ですでに鬼籍に入っていたが、翌寛永元年には二月二十日に里見義定が五十九歳で亡くなったのを皮切りに、四月二十九日には、名所司代で鳴らした板倉勝重が亡くなり、五月十八日には松平忠良が没していった。
宣教師のソテロが、密かにマニラから日本国に潜入し、神を慕うがゆえに長崎で捕えられて刑せられたのもこの年の七月だったし、信濃に移された福島正則が六十四歳で配所にその生を終ったのもこの年の七月十六日だった。
豊臣太閤夫人の高台院は、九月六日に豊臣家唯一の生き残りとして薨じ、鍋島忠茂は八月に、小笠原忠政は十月にみまかっている。
年号の変わる頃には、特に人間の交替もはげしく目立つのかもしれない。
朝廷では女御の徳川和子が、その前年十一月十九日に、後の明正天皇(女帝)を挙げさせられているので、その喜びと前後して、将軍秀忠の世代は幕をおろしていたと言ってもよい。
その内親王御降誕の一月ほど前に、武蔵岩規城主の青山伯耆守忠俊は、いったん封を収められて、上総大多喜に隠棲を強いられていた。このことは政宗の意見よりも、春日局の意見の方が、大きく家光を動かしていたのだが、この青山忠俊の追放が、秀忠の世代の幕をおろすきっかけになったのだと言ってよかった、、、。
画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像
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