この大きな世の中の変化の中で、書き落とせない出来事は、家光の舎弟の忠長(国松丸)が、何としても将軍にはなり得ずに、不平不満を抱いたまま駿河大納言として、寛永元年八月十一日に駿河に移ったことであろう。領国は駿河・遠江の二国を加えて五十五万石、誰の眼にも不足のあろう筈はなかったが、これも実は、「---母の溺愛」という不思議な愛情のために身を破ることになった・・・と、政宗の眼には映った。
(---母の愛というのは全くおかしなものだ・・・)
この、きわめて自然な本能的な母性愛は、その子にとって憎悪以上の反作用として働くことになりかねない。
政宗の母と弟小次郎の場合も、織田信長と弟信行の場合も、そして、この秀忠の正室と徳川忠長の場合も、全く同じ系路を辿ることになった。
一口に言えば、母の偏愛が、兄に弟を殺させずにおかない結果を招いたということだったが、忠長の場合はもう少し後のこと、、、。
兎に角、伊達政宗は、この新しい寛永時代に入ったということで、もう一度、大御所秀忠と将軍家光父子の上洛の先駆を勤めねばならなくなった。
この度の上洛は、いうまでもなく、万一の場合、万世一系の皇統を、どうして連綿として後世に伝えてゆくかの点にあった。
仮に戦国時代のような乱世が再び日本に訪れたとして、どうすれば永遠に保護し抜けるであろうか…?という着想と、用意から産まれている。
そうした危急の場合に、将軍の手の届く江戸の地内に、お一方だけ親王をお移し申しておかなければ安心出来ない。
そこで、鎌倉時代に例をならって、皇統お一方の下向を乞い、寛永寺を建立し、ここに常住して頂くというものだった。
この構想はすでに家康時代からあったものとして、秀忠父子にとっても、そして、仙台城内にわざわざ帝座の間を造ってあるほどの政宗にとっても、いわば生涯の仕上げの一つであったことが頷ける。
この上洛の間に忠長と、その母の阿江与の方の身の上に思いがけない不幸な試練が見舞うことになってしまった。上洛の留守中に阿江与夫人が江戸で倒れてみまかってしまったのだ…。
この突然の死は、当然のこととして、秀忠も家光も漠然とさせたに違いない。しかも、二人は、この旅の重大な意味を思って悲しみを押さえ、既に決定している行事の日時に辛うじていたのだ。
しかし、母に溺愛され、将軍になりかねた忠長は、個人としての悲嘆に耐えかね、父にも兄にも無断で、京からさっさと江戸へ帰ってしまった…。
忠長の破滅はここから始まった。
江戸へ戻った政宗が、実は、秀忠の、この人間として、父として、いちばん大きな悲しみに打つかった姿を見せられたのは、この寛永三年の上洛から江戸に帰った後のことであった。
この時、秀忠は四十八歳、政宗は六十歳だ。
(この老け方はどうであろうか・・・?)
政宗はそう思いながらも、兎に角、寛永寺のお祝いを言上した。
そう言うとこの人には珍しく、秀忠は案内して来た側用人を叱るように退出させた。
実はこの時の話の内容が、しばしば諸記録に、
「---秀忠、後事を政宗に託す」
と、記録されている二人の間の秘事・・・というよりも、人間秀忠の苦悩をこのまま政宗に打つけて来た姿であった・・・。
秀忠は自身が先立った場合、その後見人として政宗へ後事を頼んだのだ。
伊達政宗は、秀忠に、忠長のことを打明けられてからは、人間の背負わされた栄光と、その栄光に重なる苦悩の量とは、正比例してゆくのがよくわかった。
家光と忠長が、若し相争うことがあったら、彼等の何れかが天子を味方に引入れようとして、皇室までを混乱の渦に巻き込む恐れが生じてくる。
そうなれば、家康の「公家法度」も、寛永寺建立の遠大な構想もお笑い草になり下がる。
(秀忠の不安は無理もないこと・・・。)
律儀な指導者の背負わされた重荷の悲劇を思うと、政宗は彼が人生を旅と割切って来たこの世の実相に対面し直さずにはいられなかった。
急に殖えた秀忠の白髪の数が、哀れさの象徴のようにも見えて来た。
(---何とか、骨を折ってやらねばならぬ---)
この間の事情がどこで洩れたのか、
「---秀忠、後事を政宗に託す」
の記録の一語になったのだが、政宗が本心から徳川家に対して、敵意も警戒も放棄していったのは、実はこの時であったと言ってよい。
仙台ではこの年、政宗が百姓たちの為にと気負って命じた北上、迫、江合三川の合流工事が成って、北上川が石巻に流出するという大工事が完成したところであった。
こうして政宗は、寛永四年の正月を仙台で迎えてゆくと、二月二十三日に、幕府からのお許しを得て、早速、城の東南にある若林に隠居屋敷(現在の宮城刑務所)の築城に取りかかった。
「---人間、いつまでもこの世に泊めて頂くわけにもいかぬからの」
秀忠にならって、自分も隠居しようとしたのだが、しかし、実際には政宗は、生涯楽隠居の身にはなり得なかった。
秀忠が亡くなったのはまる四年後の寛永九年の正月二十四日であったが、その間、政宗はついに隠居はしなかった。
或は忠長の事が胸にあって、
「若し万一のおりには・・・。」
城主として、外様大名の去就にのぞまなければならないという思惑があったからかも知れない。
兎に角、忠長は、父秀忠の生前には切腹を迫られることは無かったが、秀忠を安心させることもなし得なかった。
忠長は自身の立場に満足出来ないまま、幕府政治のタブーである大阪城を呉れと言い出しはじめた。
秀頼と淀君が、これに執着したばかりに、あの大阪の役を引き起こした。そして、ようやくそれが片付いたと思うと、今度は松平忠輝が、大阪城を寄こせと言って取潰された。
それを知ってか知らずか、ついに忠長が、大阪城を呉れと言い出す・・・そうなれば、秀忠としては、父家康にならって忠輝同様、これを処罰せずにおけなくなる。
しかもこの頃には、政宗と共に外様長老の双璧だった藤堂高虎が亡くなっていた。
これでは、あの律儀な秀忠が、病臥せずに済む筈はなかった、、、。
秀忠が、永遠に五十四歳のまま、もの言わぬ人になってしまったのが寛永九年の正月。
その十ヶ月後、忠長が高崎の安藤重長の城に預けられ、その翌十年十二月六日、遂に二十八歳で自害して果てることになってしまった。
寛永十年は、政宗が六十七歳になる年であった、、、。
(---母の愛というのは全くおかしなものだ・・・)
この、きわめて自然な本能的な母性愛は、その子にとって憎悪以上の反作用として働くことになりかねない。
政宗の母と弟小次郎の場合も、織田信長と弟信行の場合も、そして、この秀忠の正室と徳川忠長の場合も、全く同じ系路を辿ることになった。
一口に言えば、母の偏愛が、兄に弟を殺させずにおかない結果を招いたということだったが、忠長の場合はもう少し後のこと、、、。
兎に角、伊達政宗は、この新しい寛永時代に入ったということで、もう一度、大御所秀忠と将軍家光父子の上洛の先駆を勤めねばならなくなった。
この度の上洛は、いうまでもなく、万一の場合、万世一系の皇統を、どうして連綿として後世に伝えてゆくかの点にあった。
仮に戦国時代のような乱世が再び日本に訪れたとして、どうすれば永遠に保護し抜けるであろうか…?という着想と、用意から産まれている。
そうした危急の場合に、将軍の手の届く江戸の地内に、お一方だけ親王をお移し申しておかなければ安心出来ない。
そこで、鎌倉時代に例をならって、皇統お一方の下向を乞い、寛永寺を建立し、ここに常住して頂くというものだった。
この構想はすでに家康時代からあったものとして、秀忠父子にとっても、そして、仙台城内にわざわざ帝座の間を造ってあるほどの政宗にとっても、いわば生涯の仕上げの一つであったことが頷ける。
この上洛の間に忠長と、その母の阿江与の方の身の上に思いがけない不幸な試練が見舞うことになってしまった。上洛の留守中に阿江与夫人が江戸で倒れてみまかってしまったのだ…。
この突然の死は、当然のこととして、秀忠も家光も漠然とさせたに違いない。しかも、二人は、この旅の重大な意味を思って悲しみを押さえ、既に決定している行事の日時に辛うじていたのだ。
しかし、母に溺愛され、将軍になりかねた忠長は、個人としての悲嘆に耐えかね、父にも兄にも無断で、京からさっさと江戸へ帰ってしまった…。
忠長の破滅はここから始まった。
江戸へ戻った政宗が、実は、秀忠の、この人間として、父として、いちばん大きな悲しみに打つかった姿を見せられたのは、この寛永三年の上洛から江戸に帰った後のことであった。
この時、秀忠は四十八歳、政宗は六十歳だ。
(この老け方はどうであろうか・・・?)
政宗はそう思いながらも、兎に角、寛永寺のお祝いを言上した。
そう言うとこの人には珍しく、秀忠は案内して来た側用人を叱るように退出させた。
実はこの時の話の内容が、しばしば諸記録に、
「---秀忠、後事を政宗に託す」
と、記録されている二人の間の秘事・・・というよりも、人間秀忠の苦悩をこのまま政宗に打つけて来た姿であった・・・。
秀忠は自身が先立った場合、その後見人として政宗へ後事を頼んだのだ。
伊達政宗は、秀忠に、忠長のことを打明けられてからは、人間の背負わされた栄光と、その栄光に重なる苦悩の量とは、正比例してゆくのがよくわかった。
家光と忠長が、若し相争うことがあったら、彼等の何れかが天子を味方に引入れようとして、皇室までを混乱の渦に巻き込む恐れが生じてくる。
そうなれば、家康の「公家法度」も、寛永寺建立の遠大な構想もお笑い草になり下がる。
(秀忠の不安は無理もないこと・・・。)
律儀な指導者の背負わされた重荷の悲劇を思うと、政宗は彼が人生を旅と割切って来たこの世の実相に対面し直さずにはいられなかった。
急に殖えた秀忠の白髪の数が、哀れさの象徴のようにも見えて来た。
(---何とか、骨を折ってやらねばならぬ---)
この間の事情がどこで洩れたのか、
「---秀忠、後事を政宗に託す」
の記録の一語になったのだが、政宗が本心から徳川家に対して、敵意も警戒も放棄していったのは、実はこの時であったと言ってよい。
仙台ではこの年、政宗が百姓たちの為にと気負って命じた北上、迫、江合三川の合流工事が成って、北上川が石巻に流出するという大工事が完成したところであった。
こうして政宗は、寛永四年の正月を仙台で迎えてゆくと、二月二十三日に、幕府からのお許しを得て、早速、城の東南にある若林に隠居屋敷(現在の宮城刑務所)の築城に取りかかった。
「---人間、いつまでもこの世に泊めて頂くわけにもいかぬからの」
秀忠にならって、自分も隠居しようとしたのだが、しかし、実際には政宗は、生涯楽隠居の身にはなり得なかった。
秀忠が亡くなったのはまる四年後の寛永九年の正月二十四日であったが、その間、政宗はついに隠居はしなかった。
或は忠長の事が胸にあって、
「若し万一のおりには・・・。」
城主として、外様大名の去就にのぞまなければならないという思惑があったからかも知れない。
兎に角、忠長は、父秀忠の生前には切腹を迫られることは無かったが、秀忠を安心させることもなし得なかった。
忠長は自身の立場に満足出来ないまま、幕府政治のタブーである大阪城を呉れと言い出しはじめた。
秀頼と淀君が、これに執着したばかりに、あの大阪の役を引き起こした。そして、ようやくそれが片付いたと思うと、今度は松平忠輝が、大阪城を寄こせと言って取潰された。
それを知ってか知らずか、ついに忠長が、大阪城を呉れと言い出す・・・そうなれば、秀忠としては、父家康にならって忠輝同様、これを処罰せずにおけなくなる。
しかもこの頃には、政宗と共に外様長老の双璧だった藤堂高虎が亡くなっていた。
これでは、あの律儀な秀忠が、病臥せずに済む筈はなかった、、、。
秀忠が、永遠に五十四歳のまま、もの言わぬ人になってしまったのが寛永九年の正月。
その十ヶ月後、忠長が高崎の安藤重長の城に預けられ、その翌十年十二月六日、遂に二十八歳で自害して果てることになってしまった。
寛永十年は、政宗が六十七歳になる年であった、、、。
画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像
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