2010年10月26日火曜日

伊達政宗 記(38) 大阪の役5 大阪城郭


 政宗には、徳川政権内部の、大久保忠隣と本多父子の対立などは、愚にもつかないものに思えた。
 どちらも、自分こそが忠義なのだと思い込んでしまっているばかりに、断じて相手を許せないという不思議な呪縛にかかってしまっている。

 第三者の政宗から見ると、それがチャンチャラ可笑しかった。
 どちらも、天下のための価値創造が出来る程の大人物ではない。
 秀吉や家康に比べたら、小指一本ほどの値打ちしかなく、本多父子は徳川家の戸締まりの鍵番、大久保忠隣は屋敷内の掃除人程度のもの。
 それが家康が天下を取ると、自分たちまで天下人になったような錯覚を起こして、あらぬ徒党を組んで妄動を始めてしまうから困りもの。これは大阪城にしても同じこと。
 大阪で今値打ちがあるのは城郭(じょうかく)だけで、その中に秀吉という人物がいてこそ天下も立派に治まっていたのだ。


 切支丹の厳しい詮議と禁止は、家康のいる駿河領内から始まり、それが江戸に家康が出て来たとたんに、江戸では町奉行の手で切支丹狩りが始まっていた。この時にはまだ、初めから極刑に処するという前提の逮捕ではない。むしろ今、天主教禁止のわくを、日本中へひろげてよいかどうか協議している状態だった。

 政宗も天主教の教養はソテロに訪ねて十分知っていた。誰かが、この信仰を野心のために利用しようとするのでなければ、かくべつ危険な教養でない事も知っている。
 この時代の、とくに身分ある女性が、こぞって切支丹信者になっていったのは、何よりもカトリックの一夫一婦制の戒律がお気に叶っての結果だった。
 その上、一度結婚すれば、生涯離婚は出来ない定め・・・何人もの妻妾同居に甘んじなければならなかった当時の貴夫人たちにとって、これは何ものにも代えがたい自我の救いであったに違いない。

 その天主教は、大久保長安事件(※下記参照)をきっかけに全国へ禁令され、もう一方では岡本大八事件と絡み、徳川政権内の派閥対立の激化へ広がっていった。
 大久保長安は、松平忠輝の付家老であり、特別に関係の深かった政宗へもその事件の影響はあったが、このとき家康は政宗への裁きをとくに行ってはいない。

 この天主教の全国への禁令は、大阪方への脅しの意味を含んでいた。禁令の延長線上には、大坂攻めがあり、ここで一戦を覚悟したと見せかければ、如何に呑気な大阪の老臣どもも、あわてて城を空け渡す気になるのではないだろうか?


 というのもこの慶長十八年に、七十二歳の家康の、対外政策の希望的な見通しと方針が決定していったのだ。
 家康がここで、南蛮派の後始末は伊達政宗に一任して、新興国のイギリス・オランダの紅毛派と手を握ってゆく。これは、家康の生涯で最も大きな二つの「決断---」の一つだった。

 その最初は、言うまでなく十九歳のおり、織田信長に今川義元が討たれた『桶狭間の戦い』(おけはざま)より今川家を捨てて、織田信長と提携したこと。
 その決断は誤ってはいなかった。
 この折も家康は考えぬき、悩みぬいた。それと同じ苦悩に、七十二歳の家康は再び直面していたのだ。

 世界は日本だけではなかった・・・いや、南蛮国だけではなく紅毛国もあり、全く新しい海外事情として日本に打寄せた大きな波浪のうねりだった・・・。
 そこで、伊達政宗に洋船を造らせて、日本から退去したい天主教側の人物を乗せ、出来るだけ多く故国へ送還させる。
 そうしておいて、切支丹の巣窟、大阪方の後始末に移ってゆこうとしている。

 むろん、まだこのときは豊臣家を滅ぼすようなものではない。
 どこまでも家康は、秀頼を生かそうと苦心しているのだ。
 そして、その好意は、淀殿も又よく知っているし、秀頼も充分に感謝していた。
 つまり、両者の間に殊更言い立てるほどの憎悪感情もなれければ、家康が秀頼母子をいじめたという事実も介在していない。秀頼母子だけではなく、大阪方の重臣たちにしても、誰一人として家康に個人的な反感や憎しみを抱いている者はないのだ・・・。
 両者の関係は個人的にも公的にも親藩以上の恩愛でつながれた、戦国時代には例のない密度を持った保護者と被保護者の間柄だった。


 それが、ここ一両年の間に、どうしてこう険悪さを孕(はら)んで来たのであろうか?

 その原因は、巨大な城郭。
 この難攻不落の世界一の巨城こそが、戦国野心の夢を掻き立てたり、切支丹信徒の生き残りの道を見出させている。
 その大阪城から秀頼が出てさえくれたら、不逞(ふてい)な牢人どもの夢も、天主教の信者たちの策謀も、霧散してゆくというもの。。。

 ところで同じころ、伊達政宗は何を考えていたであろうか?


画像:大阪城 特別史跡

 ※大久保長安事件:長安は全国各地の鉱山奉行を務めていた。取り分は六分とされていたが、諸経費や人夫の給料などは全て長安持ちで、経費がかからないように工夫していた。ところが、本多父子はそれを利用して、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行う。

  長安は松平忠輝の付家老で、その忠輝の岳父が伊達政宗であったという経緯から、本多父子は長安が政宗の力を背景にして謀反を企んでいたと訴え出る。
  長安は病死し、七人の男児と腹心も処刑、縁戚関係の者も多く罰せられた。

  長安・忠輝・政宗が、天主教に寛容だったこともあり、幕府の切支丹に対する弾圧開始のきっかけとなる。



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