2010年10月21日木曜日

伊達政宗 記(43) 偃武(えんぶ)の装い


 家康に、伊達を滅ぼす気はなかった。

 世俗的に言えば、「---英雄、英雄を知る」とでも言うのだろうか。
 家康も政宗を認めていたし、政宗も又家康には適しかねると、極めて自然にわが叛骨を捨てざる得ない心境になりつつあった。
(---天下というものは、奪おうとして奪えるものではなかったのだ…)
 人間世界には、才略や器量を超えたところに、一つの運命が巨大な『徳の根』として深々と張りめぐらして活きている。
 永い間に無言で積まれた代々の徳が、その繁栄に関わり、その深さと大きさを見もせずに、天下だけ狙ってみても、それは一つの悪夢にしか過ぎないのではないだろうか?
 その意味では、信長の夢にも、秀吉の夢にも、まだまだ足りないものがあった。
 いや、政宗にしても同じこと。ここで家康を倒してゆかねばならない程、はっきりとした理由がない。理由がないところへ謀反をしてみたところで、天下を制することにはなりようがなかったのだ。
 政宗が、若し天下を求めるならば、全く無私の立場に戻って、民衆のために黙々と徳を積むより他にない。そして、それが大樹をなしたところで、初めて運命は彼の前に天下を広げて見せてゆく。
 さすがに、政宗はそれを悟った。

 政宗は、家康の江戸城を見上げてみる。
 天下一巨大な天守閣に、本丸・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上・北の丸とあり、周囲十六kmにおよぶ区画を本城とした大城郭。
 そういえば、この江戸は、市街も城も政宗と成長を競うように大きくなったのだ。
 家康がこの城に入った頃は、小田原役の直後であり草深い平城だった。
 それが今では、市街は大江戸、城も又、大阪城には及ばなかったものの、立派に征夷大将軍の居城へ成り上がっている。
 政宗には仙台城がやっとだった。
 今まではそれが忌々しく感じられたのだが、今では家康の徳の総決算に見えてくる。


 伊達政宗の眼は変わった。この世の見方が別になった。
 今までは、やはり戦国人の眼であり、功名を狙う眼であった。世間では、或は以前の政宗を讃えるかもしれない。その方が変化に富んでいて面白い。しかし、この面白い変化は大乗的に遊戯、跳梁(ちょうりょう)にしかすぎないのだ。

 かつて織田信長は戦うことに徹底した。戦って勝つ以外に戦国を終息させる道はない。そう信じて徹底的に「---天下布武」で押しとおした。
 そして、その当然の結果として、人生四十九年目に味方の反抗に倒れていった。
 秀吉は、信長よりも知能派だった。いや、より徹底した征服主義をふりかざして挑んだ人生だった。征服するためには、時に相手の肩も叩き、時に圧倒的な武力で攻めもした。
 恐らく、これが昨日までの伊達政宗に、いちばん酷似していたかもしれない。
 そして、それは朝鮮出兵までは、まことに見事だった。その自信が、征明を速断させた。
 ところが、世界は、そんなに甘くはなかった。その間に、秀吉は寿命を尽きることになり、その焦りの結果が、見苦しい秀頼への執着となった。
 その無理な執着を、家康は、人情として通してやろうとした。いや、信義を貫く人間の印として、世間から褒められようとした感じもある。
 ところが、これも天は許さなかった。そして、天の摂理が、それほど甘いものではないと悟った時に、初めて運命は、家康にほんとうの天下を渡したのだと言っていい。

 今、その天下の将軍は秀忠。
 政宗には、この律儀者が、たまらなく、聡明なものに見え出した。
(---この善人を助けて生きる。それでよい。)
 それは、政宗が初めて経験する「---知我」の大悟であったといえる。


 一方、家康は今、政務の一切を将軍秀忠に任せて、自分では三つのことに専念しだしている。
 一つは、一国一城制度のこと、その二は、慶長二十年の年号を、ここで『元和』と改元すること。
 その三は、改元と同時に武家諸法度を分かち、公家法度を制定しておこうとする、その研究だった。

 この公家法度は、尋常の覚悟で制定出来るものではない。
(---家康めが思い上がって、天皇にまで一々指図をしくさった!)
 これは日本国の歴史上で、傲慢無礼な逆臣の標本にもされ兼ねない、危険をその中に孕んでいた。。。


画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像




画像:江戸図屏風 歴史民族博物館所蔵



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