2010年10月18日月曜日

伊達政宗 記(46) 新時代の驕児(きょうじ)


 同じ人間の、求めに従って変わってゆく「---時代」ながら、その時代時代が要求してくるものは皮肉なまでに変わってくる。
 つい昨日まで、人間は、たくましく、強く、乱暴な加害者型、豪傑型でなければならなかった。それで無ければ戦国武者はついて来ないし尊敬も頼りもしなかった。
 ところが、いったん平和が根づいてくると、掌を返したように、好みも価値観も変わって来る。
 昨日までは振返りもされなかった武人の中の落伍者、遊芸人型の男たちが、細身の大小に華美な着流しで当世好みの的になる。
 江戸はまだそれほどでも無かったが、政宗が上京した際、その目には殊にこれが目立った。三条から四条へかけての河原にあふれる群衆の風俗など、色彩までが、すっかり変わっていたのだ。
 女たちも見違えるように派手になっていた。
 (太閤の朝鮮出兵がなければ、この泰平も20年早く訪れたに違いない、、、)
 政宗はまたニヤニヤと笑ってしまった。
 (政宗ほどの男が、50年もかかるとは、、、)


 この頃、福島正則は、土井利勝の参議推薦により、伊達政宗・藤堂高虎と同様の参議に推されていた。
 現在、福島正則には将軍家に対して弱みを三つもっている。その一つは、大阪の役のさい大阪城内へ密かに兵糧を送り続けていたこと。もう一つは舎弟の正守が大阪城へ入って戦っていたこと。それに、家中には、正則が江戸に留めおかれた戦の最中に、禁制の大船を建造して、これに兵と兵糧を満載し、そのまま大阪城へ乗り込もうを企てた重役どももあったのだ。
 その正則が、疑われもせずに参議になる。これはどういう意味を含んでいるのだろうか?
 政宗には、それが掌を指すように分かっていた。
 正則の重臣どもは、今度びの参議推薦で必ず広島城の改築に踏み切るだろう。
 現に伊達家でも、一族の成実が、地震にかこつけて、城郭の大改造を申し出てきたばかりなのだ---。
 その意味では、日本中の大きな城は、みなそれぞれに欠陥を持っている。家康の在世中は、何れも家康に遠慮して、家康の嫌う城造りに専念出来なかったゆえであった。
 それだけに、幕府の方で油断して、正則を参議にあげたとすれば、好機おく能わずで、まっ先に城郭の改造に手をつけるだろう。
 (---これが、土井利勝の狙い---)
 家康が亡くなれば、再び天下は乱れてゆく・・・客観的には、これは戦国以来の一つの常識であった。
 「---相手が家康ならば兎に角、その小倅の秀忠など!」
 福島正則ほどの男が怖れてたまるものかという肚を、まだ捨てずにいたらどうなってゆくだろうか?

 福島正則は、気性に一つ大きな特徴を持っている。関ヶ原の役の時に、その性癖がハッキリと出た。清洲の城にあった正則が、さすがに岐阜へ進みかねている時に、家康は大きな芝居を打った。
 すると正則はカーッとなって、すぐさまその日のうちに岐阜へ突っかけた。
 こうした性癖を世間では、「---快男児」と評してゆく。もっとも戦国時代には、政治権力などはミミズの戯言。一にも二にも腕力第一、実力で済んだ時代なのだ。しかし、それは何処までも戦国気質の一つで、城攻めには特攻をあらわしても、じっくりと腰を落着けての行政となれば身を破るもとになろう。
 (---果してあの性癖に対する反省が、正則にあったかどうか?)
 それが無かったとすれば、正則は依然として独り合点の士道にこだわる反省無用の我儘者となるのだ。
 (この我儘さの抜けない者は一代限り・・・)
 自分だけは、どんなに大きくなってみても、その栄光や幸福を子孫に伝えるものではないと政宗は思う。いや、もう少し広く例をとれば、武田信玄も織田信長もその分別が粗略であったのだ。

 なぜ、ここにきて生き残った戦国武将の最長老の席から福島正則を除外しようとする必要があるのだろうか?
 それは、今、何処よりも徳川将軍家が領地不足に悩んでいるのだ。
 大阪の役の後始末がまだ終わっておらず、褒美の領地をまだ宛てがいきれていない。更に、京へ舞い戻った公家衆へのあてがいなどで、まだまだ五十万石程が不足になっている。
 そして更に、秀忠の子を将軍家の子供と名乗らてゆくとすれば、又しても数十万石の封地を蹴出してゆかねばならない。その余裕が果して今日の日本にあるや否や・・・。

 この領地不足という問題は、考えれば考えるほど逃げ場のない問題を感じさせる。
 日本人という、たくましい生命力を持った人間の、野心や欲望の量に比べて、国土の広さが足りなすぎるのだ。
 豊臣太閤の時にもそれが、朝鮮出兵という大問題になっていったが、今でも又問題になってしまった。
 福島も加藤も、明智も石田も、秀頼も忠輝も、みな大々名で残していけるほど、日本の領土は広くはない。とすれば、事ある毎に器量に応じて、誰かを取潰してゆくより他に実際政治の手段はない。
 そのわかりきった領土不足を、どう処理してゆくかの問題は、家光になろうが、その子の代になろうが、宿命として末世末代まで日本の政治に付きまとうガンになろう。
 この癌も忘れて働けば侵略主義になり、覚えておれば野心を放棄して、ひたすらエネルギーを押えて慎む道義人になりきるより他にない。

 さすがに伊達政宗は知っている。
 (---土井利勝が、ひとり福島正則だけを狙っている筈は無い---)
 正則がおあつらえ通り城普請を始めない場合も考え、両天秤をかけて、伊達領を狙っているとしてもおかしくはないのだ。
 そうなると、やはりまだ戻って来ない支倉常長とソテロの一行に加えて、領内に次第に増えている旧教信者のことを睨まれているに違いない。
 「---軍艦三隻、早急に日本へ回航されたし」
 このフィリップ三世に宛てた軍事同盟交渉の密書が露顕してしまったのでは、広島城の築増などとは比較にならない叛逆事件へと発展してゆくことになる。


 福島正則は、参議にされて得々と広島城へ戻ると、早速城普請に取掛かった。
 念のためにと、正式に、修理の届けを出したのは翌元和四(一六一八)年の正月二十四日。
 こうして、土井利勝に取潰される口実を、そっくり揃えてしまい福島家は取潰しに遭うのだが、それはもう少し後のはなし、、、。

 無事に支倉常長が、再び仙台の土を踏んだのは、元和六(一六二〇)年の八月二十六日だった。
 政宗には、一つの気がかりがあった。
 何分にも長い旅であり過ぎた。慶長十八年から元和六年まで・・・数えてみれば七年間にわたっている。その間ソテロと共にあり、洗礼を受けたり、歓迎されたり、ローマ法王に面接したりしてあれば、常長自身、すっかり切支丹宗徒になりきっている場合も充分ありえるのだ。
 常長を一目見た政宗はハッとなったに違いない。
 (---やはり、信者になっている。)
 支倉常長は、エスパニア首都マドリットにて、洗礼を受け信者となって帰国していたのだった。。。



画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像



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