仙台城には「帝座の間」(上々段の間)という天皇の御座所の一室が特設されているのは世間周知のとおり。
これは松島の瑞巌寺(ずいがんじ)にも設けられている。
ここに政宗の怪物性が、遺憾なく発揮されているといってよい。
世間並みの武将大名が、やたらに造営したがる巨大な天守閣は造ろうとせず、その代りに、「帝座の間」を設けて、暗に自分は「朝臣---」であって、覇者である将軍の家臣ではないぞという抵抗をやって見せている。
天下は泰平。
天皇が奥州へ都落ちしてくる筈はないのだから、ここにまだ政宗が、何程かの「野心の眼」をまだ隠しもっていたと見るべきだろう。
しかも仙台城は、北から東側にかけて広瀬川に囲まれ、南側は竜の口渓谷、西側は青葉山丘陵と自然障壁に囲まれ、難攻不落の要塞となっていた。
また、青葉山丘陵の存在により完全に敵に囲まれることがなく、それが兵糧攻め対策となっており、この後仙台を訪れる南蛮国のビスカイノ将軍は、「江戸城に匹敵する」とその防御の堅さを本国に報告した記録が残っている。
家康の許へ、オランダ国王からの新書が届いたのは、慶長十五年の十一月十二日。
オランダはいうまでもなく紅毛側。彼等の敵の南蛮人達が日本を植民地化しようとしているため、油断あるまじきようにという付言があった。
いや、さらに彼等は、大阪城の豊臣秀頼に後楯して、徳川打倒のため牢人信者の大阪城送り込みを画策し、既にそれを実行しているという情報も付されていたのだ。
秀頼が、南蛮人に担がれてその陰謀に気付かず、牢人信者を入城させているとなると、これを確かめずにいられず、早速、隠居し大御所となっていた家康も上洛し、秀頼にも上洛を命じ二条城で会見している。
これが有名な二条城の会見。
この年に、その秀頼を何とか上洛させようと病を押して骨を折った加藤清正が、その無理がたたって五十一歳で亡くなっており、島津義久が七十九歳で、浅野長政も真田昌幸も大久保忠常も亡くなっており、戦国史の末尾を飾った多くの人物が、その他にも次々と亡くなっている。
秀頼は十九歳、忠輝二十歳と青年大名へ成長しているのだから、この年は大きな世の中の変わり目にぶつかったといえるだろう。
この時代、十九・二十歳ならば、人物としては既に一人の武将とみなされる。実際に政宗は、十八歳で家督を継ぎ伊達家十七代当主となっているのだ。
この時、家康七十歳、政宗は四十五歳。
そして、問題の南蛮大国の使節 セバスティアン・ビスカイノ将軍が、太平洋を渡り家康に謁見したのは、この年の九月十五日だった。そしてその後、ビスカイノは仙台へと向かっている。
ビスカイノの目的は、船がかりの出来る良港を発見しておいて、家康との威嚇交渉へ入ろうとするところにあった。なので宣教師のソテロが、南蛮人の日本の窓口である政宗のいる仙台へ、先ずは誘い出したのだと考えられる。
そして将軍秀忠がそれを許可したのは、いずれ江戸へやってくる紅毛人との鉢合わせを回避する理由も含まれていた。
『伊達貞山治家記録』に、ビスカイノが仙台城の大広間にて、政宗に謁見した記録が残っている。
このとき、政宗はビスカイノに、沿線の測量許可と引き換えに、造船の補助を頼んでいる。既に仙台領内にて、ガレオン船の建造が進んでおり、補助を頼むことにより造船技術を造船師へ習得させてしまおうと考えているのだ。
既に大筒(大砲)といわれる、長距離の攻城砲の存在は日本でも知られていた。
政宗は、ビスカイノよりこの大砲について詳しく確認したのではないだろうか?
この当時、南蛮が世界に誇る巨大戦艦の大砲の飛距離でも、現在の東京湾より江戸城へ届く程の性能を持っていた。その大砲は十数砲も搭載されているのだ。城の石垣などは一発で吹飛ばせるほどの威力。それが一艦につき十数砲。。。
この年、政宗は、次男 虎菊丸に、将軍秀忠の"忠"の一字を乞うて忠宗と名乗らせ、元服させている。
元服叙任の祝宴が催されたのは十二月十三日。従五位下、松平美作守忠宗。政宗はどこまでも抜け目なく、将軍秀忠への接近を忘れてはいない。。。

画像:伊達政宗騎馬像 仙台城址(青葉城址)

画像:瑞巌寺(ずいがんじ)帝座の間(上々段の間) 国宝
※天皇を迎えるための間
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