ほんとうの皇室の尊厳とは何だろうか?
政宗は改めて自分にそう問いかけてみたが、胸を叩いて答えられなかった。
しかし、天上に輝く太陽が、万物に生命を恵んでいる。その太陽が生命の根源なのだと受取ることに躊躇は無かった。
しかし、天上に輝く太陽が、万物に生命を恵んでいる。その太陽が生命の根源なのだと受取ることに躊躇は無かった。
太陽があるゆえ、自分も生まれたのだし、生きている。自分という人間が、この世に実在する限り、人間の遠い祖先は天照大神(あまてらすおおみかみ)なのだとする哲学的な比喩を否定は出来ない。
その天照大神から、わが朝廷の天皇は万世一系に続いている大きな生命帯の中心なのだという訓えは、信長に信じられ、秀吉に受継がれ、更に宇宙の神秘な現実として家康に畏れ継がれていた。
それなればこそ、政宗も、仙台築城のおりには、まっ先に帝座の間を設けた。
太陽が無ければ人間も無い・・・その道理を踏まえて、人間の始祖を伊勢神宮にいつきまつり、三種の神器に叛くべからざる大自然の法則をこめて、万世一系を語り伝えたこの国のありようは、誰にも破れない悠久(ゆうきゅう)の理を含んでいる。
自分は太陽の子であり、天照大神の子であり、更に天皇の子なのだと自覚出来るようになったら、それこそ大達人であり、真人であると言ってよい。
家康にはすでにその悟りがあった。それゆえに家康は、生かすもの(太陽)こそが、永遠に生かされるのだと知って日々の行為を慎んでいる。
ではこの頃の朝廷はどうなっていたであろうか?
何分にも百二十年にわたる戦乱続きで、公卿(くぎょう)公家の殆どが都落ちしてしまい、縁故を辿って各地に生きのびるのがようやくで、数千年にわたる、皇室の教養や理想はその蔭に霞んでしまっていた。
どんなに高い理想も伝統も、生活の安定がなければ発揚のしようもない。
幸い信長の献じた供御(天皇の生活費)で辛うじて生きのび、秀吉の誠意を加えて、ようやく朝臣たちもボツボツ京都へ戻ることになったところだった。
家康がどのように道義立国をめざしてみても、国の中心である廷臣たちが、理想も伝統も忘れたままでは、民心のまとまりようは無かった。
そこで百二十年にわたる戦乱で、殆ど忘却されてしまっている、この国の伝統を先ずきびしく甦らせなければならなかった。
簡単に言えば、典礼も作法も習得せずに育った朝臣たちに、よるべき道を示すのが治国の根本と気付いたのだ。
それにしても、大阪へ征く時の政宗と、今の政宗では別人のようになってしまった。
ぐんと大人にもなったようにも思えるが、その実、目算を誤って負け癖が付いたのだとも言えそうだった。
いや、今更、勝敗や事の成否にこだわる域から、大きく抜け出し得たのだから、やはりこれは成長したのに違いない。そう自分に言い聞かせもした。
すると、急に白石城にある片倉小十郎(景綱・かげつな)の病気がしきりに気になりだした。
やはり片倉景綱(※下記参照)は、政宗にとって得難い真実の名臣だった。
景綱は元和元年五十九歳で亡くなるが、その死が政宗の群を抜いた叛骨をおさめさせ、家康と協力する気にさせたのだ・・・と見る者は少なくない。しかし、それはどこまでも第三者の眼であって、政宗の真実の姿とは言いがたい。
政宗は、どこ迄も強烈な個性をもって自分を押し通そうとする独裁者型の巨人で、決して周囲の条件によっておのれを変えるような者ではなかったからだ。
公家法度を見ると、政宗には初めて家康の描いていた夢のスケールがわかって来た。
(家康は途方もないスケールの持ち主だ。)
明け暮れ国土を盗みあった戦国の武将の中では、ケタ違いと言ってよい。豊臣太閤と比較しても筑波山と富士山程の相違がある。
(到底自分などは征夷大将軍の器では無かったのだ、、、)
政宗は公家法度の書き出しである第一条を口の中で呟き返してみる。
「・・倭朝、天神地神十二代、天照大神宮、国政明白にして神代より伝え給う処の三種の神器は、天子四海万民撫育のためなり」
この場合の三種の神器は、皇位の事。わが日の本の皇位は何のためにあるか?これをあっさりと「---四海万民撫育のためなり!」と、割切って考えている。
つまり、皇位は、世界中の民を育てる為にある太陽であると断定しているのだ。
これで太陽が生命の根元で在るという大自然の姿から、その化身である天照大神と、その子孫であり万世一系を称する天皇の本質までも一度にズバリと言い切っている。
これを意地悪く逆説すれば「天皇は、我を忘れて民を愛撫育成するのでなければ、天皇ではない」とする断定になってゆく。
素直に読めば「それゆえ天皇を断じて侵してはならない」という訓えにもなり、同時に又「---民の為に天皇はある」という徹底した民主主義にもなってくる。
政宗は、一度嘆息して、次のくだりを暗誦(あんしょう)してみる。
「---神国の例するところは天魂なり。皇帝は地魂なり。天魂地魂は月日なり。日月行動の心は天子叡心を守り給う根本なり---」
政宗は公家法度の書き出しである第一条を口の中で呟き返してみる。
「・・倭朝、天神地神十二代、天照大神宮、国政明白にして神代より伝え給う処の三種の神器は、天子四海万民撫育のためなり」
この場合の三種の神器は、皇位の事。わが日の本の皇位は何のためにあるか?これをあっさりと「---四海万民撫育のためなり!」と、割切って考えている。
つまり、皇位は、世界中の民を育てる為にある太陽であると断定しているのだ。
これで太陽が生命の根元で在るという大自然の姿から、その化身である天照大神と、その子孫であり万世一系を称する天皇の本質までも一度にズバリと言い切っている。
これを意地悪く逆説すれば「天皇は、我を忘れて民を愛撫育成するのでなければ、天皇ではない」とする断定になってゆく。
素直に読めば「それゆえ天皇を断じて侵してはならない」という訓えにもなり、同時に又「---民の為に天皇はある」という徹底した民主主義にもなってくる。
政宗は、一度嘆息して、次のくだりを暗誦(あんしょう)してみる。
「---神国の例するところは天魂なり。皇帝は地魂なり。天魂地魂は月日なり。日月行動の心は天子叡心を守り給う根本なり---」
かつて政宗は、豊臣太閤こそ素晴らしい規模の大英才だと思っていた。それに比べれば、家康などはどこまでも地味な実務型の人間に過ぎないと・・・。
ところが、それは逆だった。秀吉が高麗や大明国を睨んでいる時に、家康はひっそりと宇宙を見つめていた。
秀吉が天皇を、北京で大明国に君臨させたいと希っている時に、家康は天皇を、日月行動の心を叡心(大御こころ)とした、大自然の地魂に成るべきものと考えていた。
天皇とは太陽のように、何の反対給付をのぞまず、無償の愛を永遠に万物にそそぐべきもの---と断定しているのだから、宮廷側にとっては空恐ろしいほどの訓戒となってゆく。極言すれば、皇位を踏む者はただの愛情を行使する通常の人間であってはならない。それでは日本は神国であり得ないし、大自然の心に叶って、太陽のある限り生き続ける天壌無窮、万世一系の生命は保てないぞと喝破している---。
この家康の公家法度は、宇宙の真理を包込むほどのスケールを持っているのだから、政宗が家康に協力してゆくのも、そんな政宗を家康が認めているのも、極めて自然な心境だったと言ってよかった。。。

※片倉景綱:政宗初陣より共に参陣し、軍師役を長年にわたって務めている。
伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれ、その知才は秀吉にも高く評価されており、奥州仕置の際、秀吉は景綱を直臣に迎えようとした程だったが、政宗への忠義を選んで辞退。
仙台藩設立後は、一国一城令(※下記参照)が敷かれる中、特例として白石城が残されその城主となり、片倉家は明治まで十一代にわたって白石の地を治め続けた。
伊達家忠臣の鑑と称され、以後、片倉の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗っている。
※一国一城令:一国につき一つの城を残してその他の城はすべて廃城にするというもの。
特に幕府に対して功績があった者は例外的に廃城の対象外とされ(伊達3城)、仙台藩ではさらに要害などと称して実質上の城を多数維持し続けた。(伊達21要害)
伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれ、その知才は秀吉にも高く評価されており、奥州仕置の際、秀吉は景綱を直臣に迎えようとした程だったが、政宗への忠義を選んで辞退。
仙台藩設立後は、一国一城令(※下記参照)が敷かれる中、特例として白石城が残されその城主となり、片倉家は明治まで十一代にわたって白石の地を治め続けた。
伊達家忠臣の鑑と称され、以後、片倉の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗っている。
※一国一城令:一国につき一つの城を残してその他の城はすべて廃城にするというもの。
特に幕府に対して功績があった者は例外的に廃城の対象外とされ(伊達3城)、仙台藩ではさらに要害などと称して実質上の城を多数維持し続けた。(伊達21要害)
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