江戸時代を通して、幕府によって取り潰された大名の数はおよそ二百三十にものぼる。その半分以上は、家康、秀忠、家光の三代に集中しており、三代だけで百三十一にも達する。
(外様大名82家、親藩・譜代大名49家)
(外様大名82家、親藩・譜代大名49家)
福島家(50万石)最上家(57万石)松平家(60万石)加藤家(51万石)と、このさき外様大名をはじめ幕府の大名取潰しが本格的に始まってゆく中で、俗に「伊達62万石」 といわれる、仙台藩の安泰を決定づけたのは、忠宗と将軍養女 振姫との婚儀であったことはいうまでもないが、その裏に、政宗独特の宗教感が存在していることも見逃してはならない。
この婚儀が、外様大名の中で、伊達家だけが改易の風波を除けて通る防波堤になったとはいえ、それはどこまでも政宗の代だけであって、末代まで改易されない保証などはないからだ。
政宗は、信仰のことでは、あまりに上手く家中から領民たちまで欺き過ぎていた。
自分ばかりか、奥方も、側室もみな信者と思い込ませて布教を許した。そうしなければ誰よりも先ずソテロを騙し切れないという必要からで、戦国の謀略とすれば、さして異とするに足らない戦略戦術の一つの筈であった。
それにしても、政宗はいささか戦国的な作戦が巧妙すぎた。
当然時代が変わったので、この作戦そのものが、彼に向かって牙を磨くことにもなった。
政宗の当時の苦心が、伊達の記録に詳しく書き残されている筈もなく、仏人レオン・パジエスの日本基督(キリスト)教史を典本にしたというギリヨンの「鮮血の遺書」にかなり詳しく書かれている。
それによると、政宗が領内に禁令を出したのは、支倉常長が月ノ浦(宮城県石巻)へ帰りついた以後のことのように書かれているが、そんな筈はないと思う。
その時にはすでに、常長が月ノ浦以外の他領に着いたのでは、身の安全は期しがたいことをよく知っている。政宗からルソンに連絡があったからで、その頃には、伊達領内ではとうに禁令は出されていたと考えられる。
その禁令の内容について「鮮血の遺書」は、次のように記している。
「--(前略)政宗は外国へ使節をおくりたるため嫌疑を蒙り、エスパニア帝国の援助を求めて、日本将軍を倒さんとする者なりと言われしかば、面目を改めんとて信者を迫害することに決し、領内へ三箇条の厳令を出せり。第一---将軍の厳禁を犯して切支丹となりし者は大罰なるにより、速やかに棄教すべし。さもなくば、富者は財産を没収し、貧者は死刑に処せられん。第二---切支丹を告発するものは報酬を与うべし。第三---宣教師たるものは棄教するにあらずば追放すべし」
と書かれている。
しかし、実際に政宗が仙台藩にて行った禁令とはいささか異なっているのではないだろうか?
せいぜい、第一は、宣教師を暫く家に入れないこと。第二は、誰にも他人に切支丹の教えを勧めないこと。第三は、伊達が切支丹を見逃していることを、断じて世間に洩らさぬこと、、、。
これが政宗の禁教に対する本心であったと思われる。
心の底で信じる者は、誰もどう出来るものでもない。よって無理に止めはしないが、ただ暫くは、幕府に睨まれないよう遠慮するように、と。
その故で、伊達領内に、多くのかくれ切支丹があったことも、支倉常長がもたらした法王よりの贈物その他が、幕府をはばかって、二世紀半後の明治維新まで領内に秘匿されてあったのは、今では世間周知のとおり。
この頃から、政宗は、完全に二つの顔を持った端倪(たんげい)すべからざる巨人になっていた。三代将軍の家光が正式に参勤交代を制度として決めていったのは寛永十二(一六三五)年のことであったが、そのずっと以前から政宗はすでにそれを厳しく実行してみせていた。江戸にある時は、まことに洒脱な空とぼけた戦国生残りの元老だったが、領地へ来ると、その顔は一変していた。
緻密なご仁政の領主として、まず真っ先に重臣たちを集めて懇々と宗教について語った。いや、宗教というよりも、人間そのものの持つ生命と、その生命を養ってゆく物質の不二一体の関係についてわかり易く語り聞かせていったのだ。
伊勢神宮は、天照大神だけを祀っているものではない。生命の源の大神は内宮、その生命を養う食べ物を下さる豊受の神を外宮として併せ祀っている。
人間は、生命だけでは生きられず、さりとて食糧だけでも生命の保全は期しがたい。天照大神と豊受の大神とが一つになったところに、天壌無窮に生き継ぐ人間の生活が成り立っている。
「これは知恵だ。」というのが政宗の考えだ。
大自然をじっと睨んで、幾千年、幾万年か考え続けてたどり着いた深く高い人間の知恵。しかし、その知恵の深さを解けないからといって、あわてて転宗することはない。思案と知恵をもってゆっくり考える。その心こそ神仏の持物であると。
すでに教会や礼拝堂は壊されていた。しかし、各自の家庭の奥までは調べさせない。それゆえ、観音さまに十字を刻んで拝もうと、心で天帝を拝みながら念仏を唱えようと、それは勝手だ。考え方にせよ、産れる時は両親からとする"お伊勢さん"のありようを、よくよく思案のもとにして考えて見よと申し渡したのだ。
この宗教感は、幼児から禅という、偶像否定の宗教に鍛えられた政宗なればこそ言い得ることであった。
事実、このようにして、領主がかくれ念仏や、かくれ切支丹を暗に許した例は日本中に殆どない。それだけ政宗は新しくもあったし、深くもあったと言ってよい。
当時、こうした態度は、生活経験の豊かな常識階級には深い共感を呼んでいった。
この共感を踏まえて政治はすべきものというのが、家康を認めた後の政宗の生き方であり、悟りになった。
この頃から、政宗は、領民にも身辺の重臣たちにも、
「---人間は、この世へ客に出された旅人である」
という実感をよく口にしてゆくようになった。
「---人間というのは、永遠の命の壺の中から、生命をわけ持たされて、この世に客に出されてきた旅人なのだ。元来が客の身なれば、三度の食事が口に合わずとも、あまり不平は言わぬもの・・・」
というのである。
「---生命は永遠に繋がってゆくもの・・・」
そう気付いてみると、自分はこの世へ、五十年か六十年かの期間を限られて、客に出されて来た旅人だったというのは、何という息苦しい人間の生涯を語り尽した言葉であろうか!
しかも尚、代々の人間は、この世に生命の存ずるかぎり、永遠に自由を求めて走り続ける。
それゆえ、自由は大切にしなければならないのだという実感が、この中にはかなり哀れな余韻をふくんで盛りこまれている。これを見るに、奔放にまで見えるこの男の生涯にさえ、それほど大した自由は無かったようだ。
いや、この切ないほど真剣な実感があればこそ、政宗もついに家康のめざす「---泰平招来」に共鳴し、その中に自分を適応させてゆく気になったのだとも受け取れる。
これが、伊達政宗という、あらゆる生命の危機をくぐりぬけてきた奇傑の、真正な発見であり、悟りであったに違いないだろう。。。
画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像

画像:短剣 クリス形剣 仙台市博物館所蔵 国宝
(慶長遣欧使節関係資料)
(慶長遣欧使節関係資料)
画像:十字架像 仙台市博物館 国宝
(慶長遣欧使節関係資料)
(慶長遣欧使節関係資料)
画像:祭服 仙台市博物館所蔵 国宝
(慶長遣欧使節関係資料)
※祭服:教会で位が高い僧が儀式の時に身につけるもので、中央の濃い茶色のビロード地にはアカンサスの花が刺しゅうされ、天使は描絵で表現されている。また、両脇の薄茶色のきれ地にはぼたん唐草が刺しゅうされ、裏地には全体的にもえぎ色の平絹が用いられている。
※祭服:教会で位が高い僧が儀式の時に身につけるもので、中央の濃い茶色のビロード地にはアカンサスの花が刺しゅうされ、天使は描絵で表現されている。また、両脇の薄茶色のきれ地にはぼたん唐草が刺しゅうされ、裏地には全体的にもえぎ色の平絹が用いられている。
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