2010年10月29日金曜日

伊達政宗 記(35) 大阪の役2 黄金の国


 家康は、秀頼が上洛せずとも事を荒立たせぬようにと、収拾の手段を考えていた。

 隠居した家康も、新将軍秀忠も、秀頼が上洛しなかったといって、大阪へは寄れない。そこで代理として、面識もあり年齢も一つ違いの忠輝を挨拶に遣わせようと、上洛させているのだ。
 政宗にとっては、初めて見る婿だった。
 年齢は、この年(慶長十年)政宗三十九歳。松平忠輝は十四歳。
 政宗が、愛姫を娶ったのが十三歳。
 人間十四歳になれば、そろそろ男としての個性や素質が、容貌動作に滲み出てくる頃なのだが・・・
 姿を見せた忠輝は、政宗の予想を遥かに上まわる背丈だった。体躯も衆にすぐれて、眼光、容貌共に申分のない貴公子ぶり。。。

 一方、大将軍の秀忠はというと、、、残念ながら家康には及ぶべくもなく、律儀にその遺業を継ぐという、所詮は二代目のような人物だった。
 ということは、世間に大きな風波が立てば捌ききれる人物ではない。。。


 忠輝と五郎八姫の婚礼が、江戸おいて挙げられのが、慶長十一年の十二月二十四日。
 そして翌々年に、松平の姓を許され、陸奥守に任じられた、松平陸奥守政宗(まつだいらむつのかみまさむね)という大怪物の、どうにもならない野心の「眼---」がその顔を覗かせていったのは、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)が出来上がった、慶長十五年のことだった。

 政宗が、南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)である、宣教師ルイス・ソテロを自分の屋敷に呼んで、天主教の聖フランシスコ派の説教を聞いたのは慶長十五・六年の頃といわれているが、実は、それよりずっと以前の慶長十年には、もはや政宗とソテロはしばしば会っていたと推測される。
 事実、忠輝のもとへ輿入れしたときに、忠輝も、政宗夫人も、五郎八姫も、かなり熱心な天主教信者となっていたのだ。


 紅毛にせよ南蛮にせよ、どちらも"黄金の国ジパング"の侵略を狙っていた。
 南蛮大国の狙い方は、決してソテロのような純粋な宗教的開国というわけではなく、手っ取り早い武力による占領を考えていた。いや、そうしなければ、イギリスやオランダの紅毛人に出し抜かれるとあせっている。
 しかし、この南蛮人を呼ぼうとしているのは、鉱山技術、精錬技術、造船技術と知りたいこといっぱいの家康だった。
 そこで南蛮人は、家康の言うままに貿易結構、鉱山技術の伝授結構、精錬技術も造船技術もみな結構で、家康の機嫌を取り結び、先ず海岸線の測量をしておいて、それから世界に誇る大艦隊にて遠征し征服しようとしているのだ

 政宗が今少しく小心だったなら、ここで直ちに家康に報告するという一石を打っておいたに違いない。
 ところが、政宗は大きな夢に酔いすぎていた。
 政宗は、むしろこの南蛮人を利用し、そして大阪城とその切支丹をも利用し、やってくるであろう大艦隊をもって一挙に日本国の覇権を奪おうと考えるのだった。
 秀頼も、忠輝もすでに天主教信者となっている。もし、家康が紅毛人と手を組み、秀頼に弓を引くこととなれば、切支丹を含め南蛮国が黙ってはいまい。

 ここからは、豊臣の、徳川の、というケチな争いではなくなってくる。
 大阪の陣はあるものとして、南蛮 対 紅毛の大格闘の中へ、日本国も加わって、三つ巴になって世界の覇権を争ってみるというのは、何とも言い得ぬ魅力ある男の仕事に思える。
 これは心情的に見て、決して家康への反逆ではない。家康に傾倒し、家康に登用された位置から世界を望見して、この逸材が辿り着いた「世界政策---」に他ならないからだ。
 したがって、国内で殺戮(さつりく)し合う従来の争いとはスケールが違い、どこまでも日本国の将来の運命を決定してゆくほどの、男の舞台。


 今、家康の側にあって、情勢分析と知識を提供しているのは、英人ウイリアム・アダムス。それならば、こっちにも、ソテロとその聖サンフランシスコ派の宣教師達がある。それは、情報網に優劣がなければ、両者の器量と判断力にかかってくる筈。
 早速、政宗は、南蛮国であるローマへの使節派遣の構想を固めてゆくのだった。。。


画像:国宝 瑞巌寺(ずいがんじ) 入口
宮城県松島



画像:瑞巌寺(ずいがんじ)上段の間 国宝

※藩主の間(左奥が上々段の間)




画像:臥竜梅(がりゅうばい) 樹齢400年 瑞巌寺邸内

伊達政宗が朝鮮出兵の際、
朝鮮より持ち帰り、その手で植えたと伝えられている。
紅白一本づつ植えられている。



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