支倉常長が、フィリップ三世の実力を知り、大きな失望を抱いてローマに渡り、ここで法王のポール五世に、政宗の書簡を捧呈(ほうてい)したのと同じ頃に、日本では片倉景綱が白石城(宮城)で亡くなっている。
この時、政宗は領国にてそれを見送った。
その少し後に「---家康病気」の知らせが、江戸留守居の伊達阿波から届いている。
仙台を発った政宗の胸は、ともすれば又あやしい雲を呼んで波立ちそうであった。
ようやく家康の天下を認めて、これに協力してゆくことに生甲斐を見出そうとしたとたんなのだ。
(---家康も患うては、もうこれが死期になろう---)
すでに七十五歳となっている。
しかし、その家康が亡くなって、果して天下が穏やかに治まってゆくのかどうか?
政宗の身辺からも、片倉が欠けたように、家康の身辺でも、すでに彼を助けて来た譜代の賢臣たちは老いすぎている。
外様大名の中では伊達政宗と藤堂高虎。秀忠の腹心では土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)と酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)ぐらいのもので、他はぐんと重みが減じてゆく。
したがって、ここで政宗に野心があれば、まだ天下はどうにも動きそうな気がしてならない。
政宗の動き次第で、舟の重心がどちらへ傾くのか分からないのだ。
(---いや、もう迷ってなどはいられない。天下安泰のおとぼけ達磨で通してゆくのだ---)
政宗が騒ぐ血潮を押さえながら江戸へ着くと、江戸市内は再びはげしい動揺にさらされ出していた。
「---伊達政宗がやってくる!」
江戸へ着いたとたんに、町人までが乱を思い出すというのは何とした事か。
政宗自身はすっかり「---おとぼけ」を気取っていても、世間から見れば何時も法衣の下に鎧の覗く、物騒な謀叛好きに見えるということではないか---。
市民の眼にそう映る程のものが、旗本や譜代大名たちにそう見えない筈はない。自分は家康や秀忠を助ける気でも、周囲が警戒いっぱいでは何時どのような罠にかけらてもおかしくはない。
元和二年四月十七日巳の刻(午前十時)に家康はみまかった。
家康の意志をもってした最後の命令は、林道春を枕元に呼び寄せて、城内に集めてあった万巻の書「---駿府文庫」を、後人のために整理しておくようにということだった。それ以後に命令らしい意思表示の後はない。
このあたりに、「---お拾い(秀頼)を頼む。お拾いを・・・」そう言い続けて息を引きとった秀吉と家康の、人間の差異がはっきりと出て来ている。
と言って、一方が迷いぬく程わが子を愛し、一方は肉親に冷淡だったなどという批評は誤った見解にしか過ぎない。
政宗は、この直後に秀忠より出府の命を受けている。
それにしても、政宗の今度の出府は並々ならぬ重大な責任を持たされることになる。
政宗が到着すると、秀忠はすぐさま上洛の用意にかかるに違いない。そして、政宗はその行列の露払いという名目で、内実は家康に代わる将軍の後見人なのだ。
政宗が最も気にかけているのは、宮廷内の公卿たちの教養と身持ちであった。残念なことに、当時の公卿たちの姿勢はひどく乱れてしまっている。
それだけに、最善の理想をどのように宮廷内に復活せしめてゆくかは、政宗にとって、自ら帝王になる程に気にかかることであった。
そこに、秀忠というあの律儀者では、治まる問題も治まらず、体を壊してしまいかねないのだ。
そこで政宗は「---公卿にも容赦なく、不都合はお叱りなされ」と相談を持ちかけてきた秀忠へ助言している。
秀忠のこの元和三(一六一七)年の上洛中は、秀忠の性格からすれば異常なまでに威張って見せている。秀忠が武将大名に対して威を張ることこそ、即ち、衰微している朝廷に威信を加えるものだからだ。
実力をもって天下に臨む将軍家が、実は朝廷にはうやうやしく臣礼を執って見せる。権威のありかは実力ではなくて、高く美しいこの国の理想なのだと実行で示さなければ、真理による理性の命脈は保てない。この事は公卿に対しても同様だった。
それだけに公卿たちの中には、秀忠に反感を示す者も少なくなかった。
しかし、将軍は天皇の執政なのだ。政略では土井利勝が辣腕(らつわん)を振るい、精神面では、伊達政宗がその支えに充分なっていた。
秀忠は、その期待に応えるようにして、外国使臣に対しても、殊更多く伏見や二条城で接見している。
オランダに渡海の朱印を授け、イギリスの使節への会見だけではなく、朝鮮信使をわざわざ大徳寺に館させておいて、これを伏見城に招いている。
兎に角、一つの国を、秩序ある集団として造り上げてゆく苦労は並み大抵のものではなかった。
この度の在京中に、政宗は京より呂宋(ルソン・フィリピン)へ向けて極秘で飛脚を送っている。
これは、泰平の世の、伊達家安泰を決定付ける重大な意味をもっているのだが、この時の進むべき時代の方向性は、一体どこへ向かっていたのであろうか。。。
この時、政宗は領国にてそれを見送った。
その少し後に「---家康病気」の知らせが、江戸留守居の伊達阿波から届いている。
仙台を発った政宗の胸は、ともすれば又あやしい雲を呼んで波立ちそうであった。
ようやく家康の天下を認めて、これに協力してゆくことに生甲斐を見出そうとしたとたんなのだ。
(---家康も患うては、もうこれが死期になろう---)
すでに七十五歳となっている。
しかし、その家康が亡くなって、果して天下が穏やかに治まってゆくのかどうか?
政宗の身辺からも、片倉が欠けたように、家康の身辺でも、すでに彼を助けて来た譜代の賢臣たちは老いすぎている。
外様大名の中では伊達政宗と藤堂高虎。秀忠の腹心では土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)と酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)ぐらいのもので、他はぐんと重みが減じてゆく。
したがって、ここで政宗に野心があれば、まだ天下はどうにも動きそうな気がしてならない。
政宗の動き次第で、舟の重心がどちらへ傾くのか分からないのだ。
(---いや、もう迷ってなどはいられない。天下安泰のおとぼけ達磨で通してゆくのだ---)
政宗が騒ぐ血潮を押さえながら江戸へ着くと、江戸市内は再びはげしい動揺にさらされ出していた。
「---伊達政宗がやってくる!」
江戸へ着いたとたんに、町人までが乱を思い出すというのは何とした事か。
政宗自身はすっかり「---おとぼけ」を気取っていても、世間から見れば何時も法衣の下に鎧の覗く、物騒な謀叛好きに見えるということではないか---。
市民の眼にそう映る程のものが、旗本や譜代大名たちにそう見えない筈はない。自分は家康や秀忠を助ける気でも、周囲が警戒いっぱいでは何時どのような罠にかけらてもおかしくはない。
元和二年四月十七日巳の刻(午前十時)に家康はみまかった。
家康の意志をもってした最後の命令は、林道春を枕元に呼び寄せて、城内に集めてあった万巻の書「---駿府文庫」を、後人のために整理しておくようにということだった。それ以後に命令らしい意思表示の後はない。
このあたりに、「---お拾い(秀頼)を頼む。お拾いを・・・」そう言い続けて息を引きとった秀吉と家康の、人間の差異がはっきりと出て来ている。
と言って、一方が迷いぬく程わが子を愛し、一方は肉親に冷淡だったなどという批評は誤った見解にしか過ぎない。
政宗は、この直後に秀忠より出府の命を受けている。
それにしても、政宗の今度の出府は並々ならぬ重大な責任を持たされることになる。
政宗が到着すると、秀忠はすぐさま上洛の用意にかかるに違いない。そして、政宗はその行列の露払いという名目で、内実は家康に代わる将軍の後見人なのだ。
政宗が最も気にかけているのは、宮廷内の公卿たちの教養と身持ちであった。残念なことに、当時の公卿たちの姿勢はひどく乱れてしまっている。
それだけに、最善の理想をどのように宮廷内に復活せしめてゆくかは、政宗にとって、自ら帝王になる程に気にかかることであった。
そこに、秀忠というあの律儀者では、治まる問題も治まらず、体を壊してしまいかねないのだ。
そこで政宗は「---公卿にも容赦なく、不都合はお叱りなされ」と相談を持ちかけてきた秀忠へ助言している。
秀忠のこの元和三(一六一七)年の上洛中は、秀忠の性格からすれば異常なまでに威張って見せている。秀忠が武将大名に対して威を張ることこそ、即ち、衰微している朝廷に威信を加えるものだからだ。
実力をもって天下に臨む将軍家が、実は朝廷にはうやうやしく臣礼を執って見せる。権威のありかは実力ではなくて、高く美しいこの国の理想なのだと実行で示さなければ、真理による理性の命脈は保てない。この事は公卿に対しても同様だった。
それだけに公卿たちの中には、秀忠に反感を示す者も少なくなかった。
しかし、将軍は天皇の執政なのだ。政略では土井利勝が辣腕(らつわん)を振るい、精神面では、伊達政宗がその支えに充分なっていた。
秀忠は、その期待に応えるようにして、外国使臣に対しても、殊更多く伏見や二条城で接見している。
オランダに渡海の朱印を授け、イギリスの使節への会見だけではなく、朝鮮信使をわざわざ大徳寺に館させておいて、これを伏見城に招いている。
兎に角、一つの国を、秩序ある集団として造り上げてゆく苦労は並み大抵のものではなかった。
この度の在京中に、政宗は京より呂宋(ルソン・フィリピン)へ向けて極秘で飛脚を送っている。
これは、泰平の世の、伊達家安泰を決定付ける重大な意味をもっているのだが、この時の進むべき時代の方向性は、一体どこへ向かっていたのであろうか。。。

画像:日光東照宮
徳川家康 辞世の句
嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
(うれしいかな、最後かと目を閉じたが、また目が覚めた。この世で見る夢は夜明けの暁の空のようだ。さて、もう一眠りするとしようか。)
徳川家康 遺訓(東照宮遺訓)
人の一生は、
重荷を負うて 遠き道を 行くが如し。
急ぐべからず。
急ぐべからず。
不自由を 常と思えば 不足なし。
心に望みおこらば 困窮したる時を思いだすべし。
堪忍は 無事長久の基。(※)
心に望みおこらば 困窮したる時を思いだすべし。
堪忍は 無事長久の基。(※)
怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて 負くることを知らざれば 害その身に至る。
己を責めて 人を責むるな。
勝つことばかり知りて 負くることを知らざれば 害その身に至る。
己を責めて 人を責むるな。
及ばざるは 過ぎたるに 勝れり。(※※)
※:忍耐は、平穏無事が永く続く基礎である。
※※:度を超えて行き過ぎた者は、不足している者よりタチが悪い。
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