『伊達治家記録』(だてちかきろく)の中のある、
「欲征南蛮時作此詩」(南蛮を征せんと欲せし時、この詩を作る)
と題する政宗の詠んだ図南の詩は、家康に、大阪の陣を二度にわけて戦うべきだという進言を思いつき、江戸へ急行する途中の興奮を秘めた作だとは読取れないだろうか?
邪法迷国唱不終(邪法邦を迷わして唱へて終らず)
欲征蛮国未成功(南蛮を征せんと欲して未だ功を成さず)
図南鵬翼何時奮(図南の鵬翼何れの時にか奮はん)
久待扶揺万里風(久しく待つ扶揺万里の風)
(キリシタンの邪教が国内を惑わし、いくら禁止しても止めそうにない。そこで一挙に南蛮の諸国を征伐しようと思うが、残念ながら未だ功を遂げるに及ばぬ。大鵬が翼を羽ばたいて南に翔るに似たこの壮挙が、果たしていつ敢行できるか、つむじ風を待って万里をゆく鵬のように、久しくその時期を待ち受けているのだが。)
この詩には、むろん万一の場合の言いわけにする備えも感じられるが、それ以上に、こっちの船が向こうに巧く着くかどうか? 南蛮の軍艦がやって来るかどうか? 政宗の思惑が成るかどうか? それ等の一切の昂りを抑えかねている若やいだ心の躍動を感じさせはしないだろうか?
政宗が江戸に着くのと前後して、家康も江戸城へ入り、ここで黒船出航のことは詳しく家康に報告された。そして、大坂攻めを一度に敢行すべきではないという献策もしている。
むろん、この時には、まだ家康は、秀頼母子の退城に一縷(いちる)の望みをつないでいたので膝を叩きはしなかったが、この少し後には、家康は大阪討伐を心に決めることになってゆく、、、。
大阪方の家老、片桐且元(かたぎりかつもと)が太閤の自慢だった、黄金の分銅二十八個を大判に鋳直してしまったのだ。その数、大判およそ四万枚。小判で概算した場合、その価値は五十万両へ相当する。
これから、二十余年後の寛永年間に、三代将軍家光が、今日の日光廟(※下記参照)を造営した時の総費用が、ざっと六十万両足らず。諸物価沸騰を考慮すると、その総額にもまさる金額なのだから、驚くべき額。
「欲征南蛮時作此詩」(南蛮を征せんと欲せし時、この詩を作る)
と題する政宗の詠んだ図南の詩は、家康に、大阪の陣を二度にわけて戦うべきだという進言を思いつき、江戸へ急行する途中の興奮を秘めた作だとは読取れないだろうか?
邪法迷国唱不終(邪法邦を迷わして唱へて終らず)
欲征蛮国未成功(南蛮を征せんと欲して未だ功を成さず)
図南鵬翼何時奮(図南の鵬翼何れの時にか奮はん)
久待扶揺万里風(久しく待つ扶揺万里の風)
(キリシタンの邪教が国内を惑わし、いくら禁止しても止めそうにない。そこで一挙に南蛮の諸国を征伐しようと思うが、残念ながら未だ功を遂げるに及ばぬ。大鵬が翼を羽ばたいて南に翔るに似たこの壮挙が、果たしていつ敢行できるか、つむじ風を待って万里をゆく鵬のように、久しくその時期を待ち受けているのだが。)
この詩には、むろん万一の場合の言いわけにする備えも感じられるが、それ以上に、こっちの船が向こうに巧く着くかどうか? 南蛮の軍艦がやって来るかどうか? 政宗の思惑が成るかどうか? それ等の一切の昂りを抑えかねている若やいだ心の躍動を感じさせはしないだろうか?
政宗が江戸に着くのと前後して、家康も江戸城へ入り、ここで黒船出航のことは詳しく家康に報告された。そして、大坂攻めを一度に敢行すべきではないという献策もしている。
むろん、この時には、まだ家康は、秀頼母子の退城に一縷(いちる)の望みをつないでいたので膝を叩きはしなかったが、この少し後には、家康は大阪討伐を心に決めることになってゆく、、、。
大阪方の家老、片桐且元(かたぎりかつもと)が太閤の自慢だった、黄金の分銅二十八個を大判に鋳直してしまったのだ。その数、大判およそ四万枚。小判で概算した場合、その価値は五十万両へ相当する。
これから、二十余年後の寛永年間に、三代将軍家光が、今日の日光廟(※下記参照)を造営した時の総費用が、ざっと六十万両足らず。諸物価沸騰を考慮すると、その総額にもまさる金額なのだから、驚くべき額。
黄金分銅は、そのままならば只の"黄金"。それが今では"通貨"としてその価値を変えてしまっている。それを牢人どもは"軍費"と受取ってしまうであろうし、大判をもって反乱を勧めてしまった形となってしまう。
心の底で資本主義の発達を憂いている家康が、大判四万枚の魔力を見落とす筈はない。この金をもって、戦のしたくて堪らない牢人大名や失業武士を雇入れては、反乱を喰止め得るものではないからだ。
且元は、大判を寺院改修などで使い果たせば戦は出来ぬ、それならば秀頼君も大阪城にあってもよいと考えていたので、分銅を大判に鋳直したことで、むしろ家康に褒められるものと思っていた。しかし、世間の受取り方はそうはならなかったのだ。
片桐且元は気付いていないのだが、この「---豊臣の大判」がもたらす影響力は、治安の混乱には決定的な要因となる。
「大阪にはまだ、関東に数倍する黄金がある!」
そう庶民に思い込ませるだけで充分。
それまでの庶民の生活は、領地から収穫してくる米穀で支えられていた。それが泰平の世になってみると、米穀以上の関わりを通貨が持ち出して来ている。
その通貨の元の黄金が、大阪城にはまだ無尽蔵にあると思い込ませたのだから、当然両者の力の均衡は逆転する。
米穀など金さえあれば幾らでも手に入る・・・という庶民の思想は、そのまま「---金さえあれば、軍備も兵備も思いのまま!」という考え方に通じてゆく。
現に京・大阪の生活は、それで充分事足りるように変わって来ているのだから、ここで一度武力によって「---権力の強大さ」を示してゆくより他にない。
このまま通貨の氾濫を残して逝ってしまえば、徳川家は雲散霧消するであろうし、そうなれば頼朝にも北条にも、信長にも秀吉にも劣った政治案の足りない者として、家康は歴史にその名を残す事となってしまう。
もちろん、家康の本心は秀頼を倒すことではない。そうなる前に掃除を済ませて、秀頼と秀忠の安泰を、双つながらその眼で確かめてから逝こうとしているのだ。
この両者の意見の相違は、到底出会うところはなかった。
今日でいえば、家康が毛沢東ならば、片桐且元は自由主義経済のアメリカにあたる。
農民的に家康は、全国的にはまだ食糧も衣料も不足だらけの事をよく知っている。事実、家康自身も倹約と称し、百姓ばかりに苦労はさせまいと、白米を食わずに麦飯を食っていた。
片桐且元は気付いていないのだが、この「---豊臣の大判」がもたらす影響力は、治安の混乱には決定的な要因となる。
「大阪にはまだ、関東に数倍する黄金がある!」
そう庶民に思い込ませるだけで充分。
それまでの庶民の生活は、領地から収穫してくる米穀で支えられていた。それが泰平の世になってみると、米穀以上の関わりを通貨が持ち出して来ている。
その通貨の元の黄金が、大阪城にはまだ無尽蔵にあると思い込ませたのだから、当然両者の力の均衡は逆転する。
米穀など金さえあれば幾らでも手に入る・・・という庶民の思想は、そのまま「---金さえあれば、軍備も兵備も思いのまま!」という考え方に通じてゆく。
現に京・大阪の生活は、それで充分事足りるように変わって来ているのだから、ここで一度武力によって「---権力の強大さ」を示してゆくより他にない。
このまま通貨の氾濫を残して逝ってしまえば、徳川家は雲散霧消するであろうし、そうなれば頼朝にも北条にも、信長にも秀吉にも劣った政治案の足りない者として、家康は歴史にその名を残す事となってしまう。
もちろん、家康の本心は秀頼を倒すことではない。そうなる前に掃除を済ませて、秀頼と秀忠の安泰を、双つながらその眼で確かめてから逝こうとしているのだ。
この両者の意見の相違は、到底出会うところはなかった。
今日でいえば、家康が毛沢東ならば、片桐且元は自由主義経済のアメリカにあたる。
農民的に家康は、全国的にはまだ食糧も衣料も不足だらけの事をよく知っている。事実、家康自身も倹約と称し、百姓ばかりに苦労はさせまいと、白米を食わずに麦飯を食っていた。
そこへ通貨が氾濫したら、巨利を博して栄えるものは商人ばかりで、その他の武士農民は貧困生活を余儀なくされる・・・つまり、国内に資本主義の根がぐんぐん張り貧困の差が拡大されてゆくことを、家康は恐れているのだ。
この問題は、家康の勤労第一主義の政治の方向性と、資本主義的な且元の考え方の相違から発している。
そして遂に、「方広寺鐘銘事件」(※下記参照)により開戦は決定され、大阪討伐の命が発せられた。
開戦時期は、まさに、伊達政宗の計画と符節を合わせている。。。
そして遂に、「方広寺鐘銘事件」(※下記参照)により開戦は決定され、大阪討伐の命が発せられた。
開戦時期は、まさに、伊達政宗の計画と符節を合わせている。。。

画像:方広寺 国家安康の梵鐘 重要文化財
京都市東山区
※日光廟(にっこうびょう):徳川家康をまつる東照宮と、徳川家光をまつる大猷院(だいゆういん)とをさす。
※方広寺鐘銘事件:家康の勧めで豊臣氏は方広寺を再建していた。問題とされたのは、その鐘にあった「国家安康」・「君臣豊楽・子孫殷昌」の部分。
「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむことと家康が非難。
片桐且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、家康は牢人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告した。
※方広寺鐘銘事件:家康の勧めで豊臣氏は方広寺を再建していた。問題とされたのは、その鐘にあった「国家安康」・「君臣豊楽・子孫殷昌」の部分。
「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむことと家康が非難。
片桐且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、家康は牢人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告した。
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