2010年10月23日土曜日

伊達政宗 記(41) 大阪の役8 冬の陣


 大阪冬の陣。
 東軍人数の総数は十九万四千余人。これに対して、大阪方は十一万九千六百余人と称し、難攻不落の大阪城塞に拠っての籠城戦で対応してゆくことになった。
 天下の覇権を掌中におさめている東軍では、どこまでも結束が大事になり、これに対抗しようとする西軍では、勝った場合の恩賞の約束が最大の問題になってくる。
 その大阪方では、長宗我部盛親は、土佐一国を与えられる約束で京からやって来たし、真田幸村は五十万石の恩賞を約束され、後藤基次、毛利勝永、仙石宗也、明石守重、京極備前、石川康長、その弟康勝、山川賢信、北川宣勝、御宿勘兵衛、塙直之、大谷吉治等々が、それぞれ十万石以上の大名待遇、あとは手柄次第というふれこみで大阪城へ乗り込んだ。
 むろん彼等は、関ヶ原の敗者にあたり、徳川家への復習に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者だった。

 その他に、秀頼が密使を送って東軍より味方に引入れようとした者は、伊達政宗のほかに、福島正則(広島)、前田利常(金沢)、島津家久(鹿児島)、浅野長晟(和歌山)、加藤嘉明(松山)、黒田長政(博多)等であったが、むろん誰も彼に味方した者はない。

 伊達政宗の兵数は一万八千余人。
 上杉景勝は五千余人、佐竹義宣は千五百余人に比べるとかなりの大動員となっている。
 これには、南蛮艦隊が、若しも支倉常長とフィリップ三世の面会が早まって、冬の陣のうちにスペイン軍が大阪湾に到着する事態を考慮したうえでの動員だった。南蛮艦隊を指揮しながら、もう一方では大阪方と徳川方へ当たらなければいけない。もし、そういうようなことになれば、何としてもそれだけの人数が必要になってくるのだ。

 戦は案のごとく、完全な包囲戦になっていった。
 大阪城近郊では、東軍の兵数に圧倒され、西軍は次第に市中の砦を捨てて籠城してゆく。
 ここまでは、むろん双方とも計算済みの戦。
 こうして完全に大阪城の包囲が終ると、家康は、各門口の前面に半永久的な陣地を築かせていった。

 「---戦をどこで終息させるか?」
 その思案もなくて開戦する者があったとすれば、それこそ戦を知らぬ者の暴走というべきだ。
 その意味では、家康の計算は、まことに至れり尽くせりだった。
 十二月一六日---。紅毛より輸入した大砲を城内へ撃ち込み、それが天守閣に命中し排煙と共に打崩していき、三弾目が命中した時には大阪城内の混乱は、もはや救いようのない極限状態を現出していた。
 凄まじい爆発音のあとから、泣き叫ぶ婦女子の声が八方に湧きあがり、腰を抜かした守備の雑兵が、そこかしこで奇声をあげて這い回っている。
 大砲は八弾でやんだ。
 それで充分な程、あたりはひどい土煙と悲鳴で占められ、何時城郭が火を噴きだすかわからない状態になっている。
 必要以上に壊したのでは、後の修繕費がかかり過ぎる。これで充分と踏んだのだろうが、ここにも家康の思案がゆき届いていると言ってよい。
 そしてすぐさま人を飛ばし、大阪方へ和議を持ち込んでゆく。そうして家康の介添えもあり、テキパキと講和は進んでいった。
 こうして大阪冬の陣は終わった。。。

 しかし、このまま本当に戦が終わってしまったのでは、政宗にとっては一大事。
 世の中がすっかり平和になったところへ、支倉常長の乗った軍艦が、大砲を撃ちながら大阪湾へ侵入して来たら、どうなるというのだ?
 
 ここで政宗は、家康へ大阪城の外壕を埋めてしまう妙案を提出してゆくのだ。
 そうなれば、仮に秀頼が大阪城を離れようとしない場合でも、外壕を埋めた裸城ならば、牢人共も切支丹信者も、誰も謀反など考えらるものではない。
 そうでもしなければ、大阪市民は安心して到底暮らせなどはしないのだ。
 家康は、外濠を埋めておけば、戦にならぬと踏んでいる。若し戦になったとしても、到底長く籠城出来ないので、秀忠の手でも充分鎮圧出来ると計算していた。
 ところが政宗はそうではない。別に豊臣家を潰さなければならないとは考えていなかったが、ここで秀頼に矛を納められては困るのだ。したがって、大人数でワイワイ騒ぎながら外濠ばかりか総濠を埋めにかからせ、秀頼はとにかく、大阪方の感情を強く刺激し、和議を無効に追い込みたいのだった。

 そもそもこの外濠埋めのことは、両軍の血判した書類の中には書かれていない。家康もそれ程重くは見ていなかったし、大阪方でも、外濠ぐらいならばと軽く考え、口約束で済ましていた程だった。
 むろん、徳川方では重臣等が政宗の思案には大賛成で、家康が引揚げると遮二無二外濠ばかりか総濠を埋めにかかってゆく。説き手が伊達政宗という巧者なのだから、藤堂高虎を始め、前田利常と一人も反対する者はいない。

 こうして、総濠埋めはぐんぐん進み、遂に大阪城は天守閣を残したのみとなった。
 裸城とはいえ、天守も城郭も忽然として建っている。大阪方に、戦う意志が無ければ、これで秀頼の面目も立派に立ってゆくのだから、このあたりが、最も微妙な、信と不信の大きな岐路だったといえる。。。


画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像



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