2010年10月30日土曜日

伊達政宗 記(34) 大阪の役1 副将軍


 慶長十年という年は、日本の歴史上で特筆大書すべき重要な意味を、後世に語りかけてくる。
 この年、朝鮮の使者が日本にやってきて、平和第一の国策が決定してゆくばかりでなく、豊臣氏滅亡のタネも又、この年にはっきり撒かれてしまっているのだ。


 政宗が、家康の先駆として京へやってきて、先ず第一に驚いたのは、その前年、即ち慶長九年の八月、家康の手で挙行された豊国祭(ほうこくさい)の評判の素晴らしさだった。
 家康は、千姫を秀頼へ嫁がせておいて、この翌九年の八月に、秀吉の七回忌を、この豊国祭という前代未聞の規模の臨時祭典で挙行させているのだ。
 意地の悪い一説では、これも家康が、他日、豊臣家を滅ぼす人心収攬のため・・・などと脱線してゆくのだが、家康が、このような祭りをやって何の利益があるだろうか?
 この豊国祭は、家康が、どのように律儀に、秀吉の霊を慰めようとしていたかが分かるだけ。

 この臨時大祭の模様は、屏風絵と記録によって、又、日本にあった宣教師たちの本国への通信によって詳細に伝わっている。
 仮装をした踊子五百人を繰出させて都大路を練り歩かせ、京の市民はこれを見物し都中が沸き立つような賑わいだった。
 この賑わいを見た宣教師たちが、世界中でこのような平和な楽園は今の地上にはないであろうと、家康の政治と日本を讃えているのだ。


 政宗は、まだ市民が忘れ得ないでいるこの祭礼の話を、秀吉に対する家康の律儀さもさることながら、日本の平和的開国を外国へ宣言する、一大デモンストレーションであったのだと政宗なりに受取っている。
 そして、これで遂に豊臣家が、将軍家に三つの大きな情けの借りが出来たと睨むのだった。
 まずは関ヶ原の折、女子供には無縁のことと豊臣家へは何の裁きもなく、二つ目は千姫の輿入れ、そして三つ目は今度の豊国祭。さらに家康は六十万石で豊臣家を残そうとまでしている。。。
 もし、ここまでしておいて、今度の将軍交代の折に、秀頼が京都へ出向いて来なければ、家康の堪忍もここまで、、、となってゆくのではないだろうか?


 この頃、大阪城の本丸では、秀頼の上洛をめぐって大荒れに荒れている最中だった。
 織田有楽斎、加藤清正、浅野幸長、福島正則を加えた上洛派に対し、淀君等が一向に上洛させようとはしない有り様。
 大阪の女たちは、まだ天下を豊臣家の私物と思い込み、家康父子は、秀頼の家老ぐらいにしか思っていない。
 このままでは淀君が狂乱して、どのような騒ぎになるのかわからない。
 そこで、一応上洛する予定のところ風邪のためにそれも不可能、とすることでまとめられたのだ。
 政宗のもとへ、そう連絡が届いたとき、これが政宗の、豊臣家を見限る最後となる。


 こうして予定のとおり、四月十六日の参内で、秀忠は正二位内大臣を兼ねる征夷大将軍となっていった。
 政宗は、この日秀忠に従って参内し、二条城に戻ると新将軍に付添うように脇座して、続々と賀詞言上に参集する諸公家、諸大名の挨拶を受けていった。
 政宗は、この頃より、将軍家との二重三重の婚約もあり、『天下の副将軍』と諸大名より呼ばれ出している。
 政宗は、切支丹どもが大阪城に目をつけているという噂は耳にしていた。
 とにかく、家康は、遠からず亡くなろう。
 そうすれば、天下は将軍秀忠と淀の方の間ではげしく揺れていく。
 大阪と江戸は又一戦・・・その時、もし自分が乗り出したら・・・
 天主教信者と南蛮人との上に、もし自分がどっしりと座ったなら・・・

 政宗は、まだ天下取りの野望を捨てず、ふたたび隻眼で睨み出すのだった。。。



豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)

徳川美術館所蔵 重要文化財






2010年10月29日金曜日

伊達政宗 記(35) 大阪の役2 黄金の国


 家康は、秀頼が上洛せずとも事を荒立たせぬようにと、収拾の手段を考えていた。

 隠居した家康も、新将軍秀忠も、秀頼が上洛しなかったといって、大阪へは寄れない。そこで代理として、面識もあり年齢も一つ違いの忠輝を挨拶に遣わせようと、上洛させているのだ。
 政宗にとっては、初めて見る婿だった。
 年齢は、この年(慶長十年)政宗三十九歳。松平忠輝は十四歳。
 政宗が、愛姫を娶ったのが十三歳。
 人間十四歳になれば、そろそろ男としての個性や素質が、容貌動作に滲み出てくる頃なのだが・・・
 姿を見せた忠輝は、政宗の予想を遥かに上まわる背丈だった。体躯も衆にすぐれて、眼光、容貌共に申分のない貴公子ぶり。。。

 一方、大将軍の秀忠はというと、、、残念ながら家康には及ぶべくもなく、律儀にその遺業を継ぐという、所詮は二代目のような人物だった。
 ということは、世間に大きな風波が立てば捌ききれる人物ではない。。。


 忠輝と五郎八姫の婚礼が、江戸おいて挙げられのが、慶長十一年の十二月二十四日。
 そして翌々年に、松平の姓を許され、陸奥守に任じられた、松平陸奥守政宗(まつだいらむつのかみまさむね)という大怪物の、どうにもならない野心の「眼---」がその顔を覗かせていったのは、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)が出来上がった、慶長十五年のことだった。

 政宗が、南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)である、宣教師ルイス・ソテロを自分の屋敷に呼んで、天主教の聖フランシスコ派の説教を聞いたのは慶長十五・六年の頃といわれているが、実は、それよりずっと以前の慶長十年には、もはや政宗とソテロはしばしば会っていたと推測される。
 事実、忠輝のもとへ輿入れしたときに、忠輝も、政宗夫人も、五郎八姫も、かなり熱心な天主教信者となっていたのだ。


 紅毛にせよ南蛮にせよ、どちらも"黄金の国ジパング"の侵略を狙っていた。
 南蛮大国の狙い方は、決してソテロのような純粋な宗教的開国というわけではなく、手っ取り早い武力による占領を考えていた。いや、そうしなければ、イギリスやオランダの紅毛人に出し抜かれるとあせっている。
 しかし、この南蛮人を呼ぼうとしているのは、鉱山技術、精錬技術、造船技術と知りたいこといっぱいの家康だった。
 そこで南蛮人は、家康の言うままに貿易結構、鉱山技術の伝授結構、精錬技術も造船技術もみな結構で、家康の機嫌を取り結び、先ず海岸線の測量をしておいて、それから世界に誇る大艦隊にて遠征し征服しようとしているのだ

 政宗が今少しく小心だったなら、ここで直ちに家康に報告するという一石を打っておいたに違いない。
 ところが、政宗は大きな夢に酔いすぎていた。
 政宗は、むしろこの南蛮人を利用し、そして大阪城とその切支丹をも利用し、やってくるであろう大艦隊をもって一挙に日本国の覇権を奪おうと考えるのだった。
 秀頼も、忠輝もすでに天主教信者となっている。もし、家康が紅毛人と手を組み、秀頼に弓を引くこととなれば、切支丹を含め南蛮国が黙ってはいまい。

 ここからは、豊臣の、徳川の、というケチな争いではなくなってくる。
 大阪の陣はあるものとして、南蛮 対 紅毛の大格闘の中へ、日本国も加わって、三つ巴になって世界の覇権を争ってみるというのは、何とも言い得ぬ魅力ある男の仕事に思える。
 これは心情的に見て、決して家康への反逆ではない。家康に傾倒し、家康に登用された位置から世界を望見して、この逸材が辿り着いた「世界政策---」に他ならないからだ。
 したがって、国内で殺戮(さつりく)し合う従来の争いとはスケールが違い、どこまでも日本国の将来の運命を決定してゆくほどの、男の舞台。


 今、家康の側にあって、情勢分析と知識を提供しているのは、英人ウイリアム・アダムス。それならば、こっちにも、ソテロとその聖サンフランシスコ派の宣教師達がある。それは、情報網に優劣がなければ、両者の器量と判断力にかかってくる筈。
 早速、政宗は、南蛮国であるローマへの使節派遣の構想を固めてゆくのだった。。。


画像:国宝 瑞巌寺(ずいがんじ) 入口
宮城県松島



画像:瑞巌寺(ずいがんじ)上段の間 国宝

※藩主の間(左奥が上々段の間)




画像:臥竜梅(がりゅうばい) 樹齢400年 瑞巌寺邸内

伊達政宗が朝鮮出兵の際、
朝鮮より持ち帰り、その手で植えたと伝えられている。
紅白一本づつ植えられている。



2010年10月28日木曜日

伊達政宗 記(36) 大阪の役3 羅馬(ろーま)は行く



 仙台城には「帝座の間」(上々段の間)という天皇の御座所の一室が特設されているのは世間周知のとおり。
 これは松島の瑞巌寺(ずいがんじ)にも設けられている。
 ここに政宗の怪物性が、遺憾なく発揮されているといってよい。

 世間並みの武将大名が、やたらに造営したがる巨大な天守閣は造ろうとせず、その代りに、「帝座の間」を設けて、暗に自分は「朝臣---」であって、覇者である将軍の家臣ではないぞという抵抗をやって見せている。
 天下は泰平。
 天皇が奥州へ都落ちしてくる筈はないのだから、ここにまだ政宗が、何程かの「野心の眼」をまだ隠しもっていたと見るべきだろう。
 しかも仙台城は、北から東側にかけて広瀬川に囲まれ、南側は竜の口渓谷、西側は青葉山丘陵と自然障壁に囲まれ、難攻不落の要塞となっていた。
 また、青葉山丘陵の存在により完全に敵に囲まれることがなく、それが兵糧攻め対策となっており、この後仙台を訪れる南蛮国のビスカイノ将軍は、「江戸城に匹敵する」とその防御の堅さを本国に報告した記録が残っている。

 家康の許へ、オランダ国王からの新書が届いたのは、慶長十五年の十一月十二日。
 オランダはいうまでもなく紅毛側。彼等の敵の南蛮人達が日本を植民地化しようとしているため、油断あるまじきようにという付言があった。
 いや、さらに彼等は、大阪城の豊臣秀頼に後楯して、徳川打倒のため牢人信者の大阪城送り込みを画策し、既にそれを実行しているという情報も付されていたのだ。
 秀頼が、南蛮人に担がれてその陰謀に気付かず、牢人信者を入城させているとなると、これを確かめずにいられず、早速、隠居し大御所となっていた家康も上洛し、秀頼にも上洛を命じ二条城で会見している。
 これが有名な二条城の会見。

 この年に、その秀頼を何とか上洛させようと病を押して骨を折った加藤清正が、その無理がたたって五十一歳で亡くなっており、島津義久が七十九歳で、浅野長政も真田昌幸も大久保忠常も亡くなっており、戦国史の末尾を飾った多くの人物が、その他にも次々と亡くなっている。
 秀頼は十九歳、忠輝二十歳と青年大名へ成長しているのだから、この年は大きな世の中の変わり目にぶつかったといえるだろう。
 この時代、十九・二十歳ならば、人物としては既に一人の武将とみなされる。実際に政宗は、十八歳で家督を継ぎ伊達家十七代当主となっているのだ。
 この時、家康七十歳、政宗は四十五歳。


 そして、問題の南蛮大国の使節 セバスティアン・ビスカイノ将軍が、太平洋を渡り家康に謁見したのは、この年の九月十五日だった。そしてその後、ビスカイノは仙台へと向かっている。
 ビスカイノの目的は、船がかりの出来る良港を発見しておいて、家康との威嚇交渉へ入ろうとするところにあった。なので宣教師のソテロが、南蛮人の日本の窓口である政宗のいる仙台へ、先ずは誘い出したのだと考えられる。
 そして将軍秀忠がそれを許可したのは、いずれ江戸へやってくる紅毛人との鉢合わせを回避する理由も含まれていた。

 『伊達貞山治家記録』に、ビスカイノが仙台城の大広間にて、政宗に謁見した記録が残っている。
 このとき、政宗はビスカイノに、沿線の測量許可と引き換えに、造船の補助を頼んでいる。既に仙台領内にて、ガレオン船の建造が進んでおり、補助を頼むことにより造船技術を造船師へ習得させてしまおうと考えているのだ。
 既に大筒(大砲)といわれる、長距離の攻城砲の存在は日本でも知られていた。
 政宗は、ビスカイノよりこの大砲について詳しく確認したのではないだろうか?
 この当時、南蛮が世界に誇る巨大戦艦の大砲の飛距離でも、現在の東京湾より江戸城へ届く程の性能を持っていた。その大砲は十数砲も搭載されているのだ。城の石垣などは一発で吹飛ばせるほどの威力。それが一艦につき十数砲。。。

 この年、政宗は、次男 虎菊丸に、将軍秀忠の"忠"の一字を乞うて忠宗と名乗らせ、元服させている。
 元服叙任の祝宴が催されたのは十二月十三日。従五位下、松平美作守忠宗。政宗はどこまでも抜け目なく、将軍秀忠への接近を忘れてはいない。。。


画像:伊達政宗騎馬像 仙台城址(青葉城址)


画像:瑞巌寺(ずいがんじ)帝座の間(上々段の間) 国宝
※天皇を迎えるための間





2010年10月27日水曜日

伊達政宗 記(37) 大阪の役4 天下大乱の火


 大船建造は、城普請(しろぶしん)同様に厳禁とされていた。

 大御所家康は、今、どうして穏やかに大阪城から秀頼を、他の場所に移すかで苦心惨憺(さんたん)していた。それに岡本大八事件(※下記参照)もあり、到底南蛮のことまで思案を割く余裕などはなかったのだった。


 新年二度目の登城挨拶を済ませた政宗は、将軍秀忠に休息の間での拝謁を願い出る。
 言うまでもなく、秀忠より大船建造の許可を得ておくため。
 そこで、政宗は将軍秀忠へ一石五鳥の妙案を提案してゆく、、、

 まずは、ビスカイノの洋船を損傷させ、沿線の測量をさせず、改めて洋船建造をさせるというもの。ここで洋船技術をそっくり学び取る。これで一石二鳥。
 洋船建造の技術は、先に渡来していた英人ウイリアム・アダムスに依って僅かに伝えられてはいるものの、まだ手探りの状態だった。
 その新しい大船にて、ビスカイノを本国を追い返す引揚船とすること。これで一石三鳥。
 ビスカイノは鉱山業の分配を巡り、家康と和解できずにいた。金掘りも成立しない、船も壊されるとなれば、ここで引揚げるに違いないと踏むのだ。
 そしてその船にて、天主教の大本山であるローマへ、宣教師ソテロを派遣し法王との直接通路を開かせること。これで武力による日本侵略を封じるという手段。これで一石四鳥。
 更にはローマばかりでなく、フィリップ王への使者を遣わし南蛮国と対等の貿易を計ってゆくこと。これで一石五鳥となる。
 国内政治で精一杯だった秀忠にとっては、政宗のこうした進言は、虹の橋を仰ぐようであったに違いなく、感嘆の声を上げて承諾していった。


 将軍秀忠が苦心していた国内政治といえば、政宗にとっても決して他人事などではなく、一つに切支丹問題があった。
 実は最近、家康のいる駿河城内にて九度の放火があり、その犯人は切支丹の若い女子であったのだ。

 いつの世にも、信仰には現世の利益を度外視して狂いだす要素が多分にあり、それが他の不満と結びつくと、全国的な一揆の口火にもなりかねない。
 いうまでもなく忠輝夫妻は信者であったし、伊達家の奥から仙台藩の内部まで、信者は日毎に増えてきていた。
 一国ともなれば、不平や不満の徒が全くなくなるということはなく、うまくそれらが煽動され、大阪城は今、願ってもない騒乱の拠点となっているのだ。しかもその矛先は打倒徳川。

 その大阪城から何とかして秀頼を出そうと、家康は苦心していた。決して豊臣を倒そうなどというのではない。
 しかし、そうした真意を汲み取れるほどの人物は豊臣家の重臣の中には一人もいなく、だからといって、出てゆけなどと言ったら非難は家康に集中しよう。それがどんなに家康の義理だったとしても、世間の知識レベルはそんなに高いところには無い。
 逆に小型の忠臣や野心の徒を憤激させて、反徳川の火勢を煽るのが落ち。


 それともう一つ、徳川政権内部で武功派と文治派の対立があり、派閥対立や階級内の憎悪などが勃発していた。
 将軍秀忠の政権有力者である大久保忠隣と、大御所家康の重臣である本多正信・正純父子とが対立していたのだ。それが岡本大八事件を経て一気に沸騰していた。
 むろん外様大名ではあったが、副将軍と言われている政宗へも、大久保忠隣より本多父子を追放するクーデターの協力の相談はあったのだが、政宗はそれを断っている。

 十年前であったなら「天下大乱の火を点けろ!」などと眼の色を変えて忠隣を操縦したかも知れない。
 しかし、今はそうではい。
 政宗には別の大博打、南蛮雄飛が着々と進行しているからだ。。。



 ※岡本大八事件:慶長十四年二月、マカオに寄港した有馬晴信の朱印船の水夫が、酒場で南蛮人と乱闘し水夫六十名ほどが殺害され、さらに積荷まで略奪される事件が起こる。家康は報復を命じ、南蛮国船を沈没させる。これに関与していた岡本大八に、朱印船の偽造事実や賄賂が発覚し、有馬晴信と共に処刑。
  両者が切支丹だった為、切支丹の倒幕心が煽られていった。


 ※余談:この事件で、切腹ではなく処刑が選ばれた理由は、切支丹は自害すること教えの中で固く禁止されていた為。



2010年10月26日火曜日

伊達政宗 記(38) 大阪の役5 大阪城郭


 政宗には、徳川政権内部の、大久保忠隣と本多父子の対立などは、愚にもつかないものに思えた。
 どちらも、自分こそが忠義なのだと思い込んでしまっているばかりに、断じて相手を許せないという不思議な呪縛にかかってしまっている。

 第三者の政宗から見ると、それがチャンチャラ可笑しかった。
 どちらも、天下のための価値創造が出来る程の大人物ではない。
 秀吉や家康に比べたら、小指一本ほどの値打ちしかなく、本多父子は徳川家の戸締まりの鍵番、大久保忠隣は屋敷内の掃除人程度のもの。
 それが家康が天下を取ると、自分たちまで天下人になったような錯覚を起こして、あらぬ徒党を組んで妄動を始めてしまうから困りもの。これは大阪城にしても同じこと。
 大阪で今値打ちがあるのは城郭(じょうかく)だけで、その中に秀吉という人物がいてこそ天下も立派に治まっていたのだ。


 切支丹の厳しい詮議と禁止は、家康のいる駿河領内から始まり、それが江戸に家康が出て来たとたんに、江戸では町奉行の手で切支丹狩りが始まっていた。この時にはまだ、初めから極刑に処するという前提の逮捕ではない。むしろ今、天主教禁止のわくを、日本中へひろげてよいかどうか協議している状態だった。

 政宗も天主教の教養はソテロに訪ねて十分知っていた。誰かが、この信仰を野心のために利用しようとするのでなければ、かくべつ危険な教養でない事も知っている。
 この時代の、とくに身分ある女性が、こぞって切支丹信者になっていったのは、何よりもカトリックの一夫一婦制の戒律がお気に叶っての結果だった。
 その上、一度結婚すれば、生涯離婚は出来ない定め・・・何人もの妻妾同居に甘んじなければならなかった当時の貴夫人たちにとって、これは何ものにも代えがたい自我の救いであったに違いない。

 その天主教は、大久保長安事件(※下記参照)をきっかけに全国へ禁令され、もう一方では岡本大八事件と絡み、徳川政権内の派閥対立の激化へ広がっていった。
 大久保長安は、松平忠輝の付家老であり、特別に関係の深かった政宗へもその事件の影響はあったが、このとき家康は政宗への裁きをとくに行ってはいない。

 この天主教の全国への禁令は、大阪方への脅しの意味を含んでいた。禁令の延長線上には、大坂攻めがあり、ここで一戦を覚悟したと見せかければ、如何に呑気な大阪の老臣どもも、あわてて城を空け渡す気になるのではないだろうか?


 というのもこの慶長十八年に、七十二歳の家康の、対外政策の希望的な見通しと方針が決定していったのだ。
 家康がここで、南蛮派の後始末は伊達政宗に一任して、新興国のイギリス・オランダの紅毛派と手を握ってゆく。これは、家康の生涯で最も大きな二つの「決断---」の一つだった。

 その最初は、言うまでなく十九歳のおり、織田信長に今川義元が討たれた『桶狭間の戦い』(おけはざま)より今川家を捨てて、織田信長と提携したこと。
 その決断は誤ってはいなかった。
 この折も家康は考えぬき、悩みぬいた。それと同じ苦悩に、七十二歳の家康は再び直面していたのだ。

 世界は日本だけではなかった・・・いや、南蛮国だけではなく紅毛国もあり、全く新しい海外事情として日本に打寄せた大きな波浪のうねりだった・・・。
 そこで、伊達政宗に洋船を造らせて、日本から退去したい天主教側の人物を乗せ、出来るだけ多く故国へ送還させる。
 そうしておいて、切支丹の巣窟、大阪方の後始末に移ってゆこうとしている。

 むろん、まだこのときは豊臣家を滅ぼすようなものではない。
 どこまでも家康は、秀頼を生かそうと苦心しているのだ。
 そして、その好意は、淀殿も又よく知っているし、秀頼も充分に感謝していた。
 つまり、両者の間に殊更言い立てるほどの憎悪感情もなれければ、家康が秀頼母子をいじめたという事実も介在していない。秀頼母子だけではなく、大阪方の重臣たちにしても、誰一人として家康に個人的な反感や憎しみを抱いている者はないのだ・・・。
 両者の関係は個人的にも公的にも親藩以上の恩愛でつながれた、戦国時代には例のない密度を持った保護者と被保護者の間柄だった。


 それが、ここ一両年の間に、どうしてこう険悪さを孕(はら)んで来たのであろうか?

 その原因は、巨大な城郭。
 この難攻不落の世界一の巨城こそが、戦国野心の夢を掻き立てたり、切支丹信徒の生き残りの道を見出させている。
 その大阪城から秀頼が出てさえくれたら、不逞(ふてい)な牢人どもの夢も、天主教の信者たちの策謀も、霧散してゆくというもの。。。

 ところで同じころ、伊達政宗は何を考えていたであろうか?


画像:大阪城 特別史跡

 ※大久保長安事件:長安は全国各地の鉱山奉行を務めていた。取り分は六分とされていたが、諸経費や人夫の給料などは全て長安持ちで、経費がかからないように工夫していた。ところが、本多父子はそれを利用して、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行う。

  長安は松平忠輝の付家老で、その忠輝の岳父が伊達政宗であったという経緯から、本多父子は長安が政宗の力を背景にして謀反を企んでいたと訴え出る。
  長安は病死し、七人の男児と腹心も処刑、縁戚関係の者も多く罰せられた。

  長安・忠輝・政宗が、天主教に寛容だったこともあり、幕府の切支丹に対する弾圧開始のきっかけとなる。



2010年10月25日月曜日

伊達政宗 記(39) 大阪の役6 慶長遣欧使節


 陸前牡鹿群、月の浦(現在の宮城県石巻市)。
 ここで建造された大船は、長さ十八間、横幅五間半、高さ十四間一尺五寸と記録されている。
 外廻りを黒く塗っていたので黒船と呼ばれ、すべてが鉄で出来ているかのような威容だった。これが、ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号。
 これに乗組んだ人員は百八十人余人とも二百人ともいわれている。

 その黒船が、船台から水の上へ浮かべられたのが七月二十三日、出航が九月十五日。

 政宗は、この慶長遣欧使節へは支倉常長(はせくらつねなが)を人選し、ローマ法王へ手紙を持たせている。この他に常長へ、軍艦を五隻すぐさま大阪湾に直行させて頂きたい旨をことづけた。そうして、イギリス勢力を一掃し、天主教を守りぬこうと訴え出る。
 この軍艦にて日本の覇権を一挙に奪い取ろうというのだ。


 政宗には、どんなに家康が苦心してみても、大阪の陣は避けられないと睨んでいる。大阪方にはこの事態を把握し収拾できる程の人物が見当たらない。
 それに比べて、家康は駿馬に値する男子を多く残している。それが今、徳川政権内部の派閥対立へ影響しているとはいえ、結城秀康にしても松平忠輝にしても、才覚はまず抜群だった。
 一人でも豊臣秀吉にこれに値する男子が生まれていたらと思うと、人生の不思議さを感じずにはいられない。

 予定どおり九月十五日に船を出したが、若い頃ほど嬉しくはなかった。
 このぶんでは、軍艦が五隻やって来て、天下がそっくり自分の懐中に転がり込んできたところで、さして嬉しくはないのかも知れない。

 それにはむろん、訳の分からぬまま動いてゆく若い頃の人生ではないということもあるが、それ以上に家康が自身の死を間近と悟り、政宗へ天下を任せるような発言をこの頃よりしているからだ。
 (将軍もダメ、秀頼もダメと写れば、何時でも二人を倒して天下を取られよ。)
 この皮肉とも、老人の絵空事とも思える家康の発言は、南蛮の件が見抜かれているようでもあり、隠しきれているようでもある。
 しかも政宗は、家康より高田城(新潟県)の築城をこの頃に任されていた。一方では出航の準備と築城準備。それにしても、家康の人使いは政宗に限らず荒かった。
 この築城も、大阪方への警笛を意味が含まれていた。この泰平の世で、築城という戦の支度をして見せれば、大阪方もいい加減気が付くというもの。

 とにかく、こうなれば、大坂攻めをあまり急がれても困る。船はまず呂宋(フィリピン)へ着き、ここからメキシコのアカプルコの港を目指して太平洋を渡る。そこからスペイン目指して大西洋を渡ってゆくのだ。
 いうまでもなく、これが日本人はじめての太平洋・大西洋横断となる。


 政宗の計算では、大坂攻めは早くても来年の冬と睨んでいる。家康の忠臣である三河武士は元来百姓育ち。稲刈りが終わらない内は、もったいなくて兵は動かせないという信仰に近い遠慮をもっていた。
 それが「---道義立国」などという律儀な夢を見ているのだから、家康がその禁を破る筈は先ずない。
 その意味では、大阪冬の陣とスペイン訪問とは、まさに寸刻を争う速度で進行していく。
 もし、冬中で間に合わないとすれば、いっぺん講話を結ばせて、中休みを入れ待ってみればよい。大阪城を遮二無二(しゃにむに)攻撃したのでは、犠牲が多いと家康に献言すれば違和感もない。
 何分家康は老齢、一年待つのは無理であろう。ならば、田植えの終わる夏まで延ばせれば充分。

 大阪攻めを二度にわけて行うという着想は、何とも愉快な政宗ならではの着想ではないか!
 最初は冬の陣。
 続いて夏の陣。
 その間にあの大阪城の総濠を埋めてしまうのはどうだろうか?
 そうすれば、あの城に籠って戦ってみたいという群小軍師どもの妄想の夢も、一気に埋没させることが出来る。
 この半年が、或いは天下を政宗に献ずるか否かの岐路になるかも知れない---。


 そうなってくると、政宗にとって目下の急務は、大阪の城内事情を知ることだった。大阪方からバカが現れて、戦の口火を切られたのでは元もこもない。家康が本気になって総動員をかけていったら、大阪方に勝算などあろう筈はないからだ。

 一方、大阪城では今、切支丹信者と、徳川政治にあきたらない牢人どもが、静かな入江のように城内に流れ込んでいた。。。



画像:ローマにて描かれた支倉常長とサン・ファン・バウティスタ号



画像:支倉常長像 仙台市博物館所蔵 国宝




画像:ローマ市公民権証書 仙台市博物館所蔵 国宝
※ローマ市議会が支倉常長に与えた証書。正式に市民権を与えるとともに、常長を貴族に列するという内容が羊皮紙(ようひし)に金泥を用いて書かれている。





画像:伊達政宗からローマ法王にあてられた書簡



2010年10月24日日曜日

伊達政宗 記(40) 大阪の役7 黄金吹雪


 『伊達治家記録』(だてちかきろく)の中のある、
 「欲征南蛮時作此詩」(南蛮を征せんと欲せし時、この詩を作る)
と題する政宗の詠んだ図南の詩は、家康に、大阪の陣を二度にわけて戦うべきだという進言を思いつき、江戸へ急行する途中の興奮を秘めた作だとは読取れないだろうか?

 邪法迷国唱不終(邪法邦を迷わして唱へて終らず)
 欲征蛮国未成功(南蛮を征せんと欲して未だ功を成さず)
 図南鵬翼何時奮(図南の鵬翼何れの時にか奮はん)
 久待扶揺万里風(久しく待つ扶揺万里の風) 

 (キリシタンの邪教が国内を惑わし、いくら禁止しても止めそうにない。そこで一挙に南蛮の諸国を征伐しようと思うが、残念ながら未だ功を遂げるに及ばぬ。大鵬が翼を羽ばたいて南に翔るに似たこの壮挙が、果たしていつ敢行できるか、つむじ風を待って万里をゆく鵬のように、久しくその時期を待ち受けているのだが。)
 この詩には、むろん万一の場合の言いわけにする備えも感じられるが、それ以上に、こっちの船が向こうに巧く着くかどうか? 南蛮の軍艦がやって来るかどうか? 政宗の思惑が成るかどうか? それ等の一切の昂りを抑えかねている若やいだ心の躍動を感じさせはしないだろうか?

 政宗が江戸に着くのと前後して、家康も江戸城へ入り、ここで黒船出航のことは詳しく家康に報告された。そして、大坂攻めを一度に敢行すべきではないという献策もしている。
 むろん、この時には、まだ家康は、秀頼母子の退城に一縷(いちる)の望みをつないでいたので膝を叩きはしなかったが、この少し後には、家康は大阪討伐を心に決めることになってゆく、、、。


 大阪方の家老、片桐且元(かたぎりかつもと)が太閤の自慢だった、黄金の分銅二十八個を大判に鋳直してしまったのだ。その数、大判およそ四万枚。小判で概算した場合、その価値は五十万両へ相当する。
 これから、二十余年後の寛永年間に、三代将軍家光が、今日の日光廟(※下記参照)を造営した時の総費用が、ざっと六十万両足らず。諸物価沸騰を考慮すると、その総額にもまさる金額なのだから、驚くべき額。

 黄金分銅は、そのままならば只の"黄金"。それが今では"通貨"としてその価値を変えてしまっている。それを牢人どもは"軍費"と受取ってしまうであろうし、大判をもって反乱を勧めてしまった形となってしまう。
 心の底で資本主義の発達を憂いている家康が、大判四万枚の魔力を見落とす筈はない。この金をもって、戦のしたくて堪らない牢人大名や失業武士を雇入れては、反乱を喰止め得るものではないからだ。
 且元は、大判を寺院改修などで使い果たせば戦は出来ぬ、それならば秀頼君も大阪城にあってもよいと考えていたので、分銅を大判に鋳直したことで、むしろ家康に褒められるものと思っていた。しかし、世間の受取り方はそうはならなかったのだ。

 片桐且元は気付いていないのだが、この「---豊臣の大判」がもたらす影響力は、治安の混乱には決定的な要因となる。
 「大阪にはまだ、関東に数倍する黄金がある!」
 そう庶民に思い込ませるだけで充分。
 それまでの庶民の生活は、領地から収穫してくる米穀で支えられていた。それが泰平の世になってみると、米穀以上の関わりを通貨が持ち出して来ている。
 その通貨の元の黄金が、大阪城にはまだ無尽蔵にあると思い込ませたのだから、当然両者の力の均衡は逆転する。
 米穀など金さえあれば幾らでも手に入る・・・という庶民の思想は、そのまま「---金さえあれば、軍備も兵備も思いのまま!」という考え方に通じてゆく。
 現に京・大阪の生活は、それで充分事足りるように変わって来ているのだから、ここで一度武力によって「---権力の強大さ」を示してゆくより他にない。
 このまま通貨の氾濫を残して逝ってしまえば、徳川家は雲散霧消するであろうし、そうなれば頼朝にも北条にも、信長にも秀吉にも劣った政治案の足りない者として、家康は歴史にその名を残す事となってしまう。
 もちろん、家康の本心は秀頼を倒すことではない。そうなる前に掃除を済ませて、秀頼と秀忠の安泰を、双つながらその眼で確かめてから逝こうとしているのだ。



 この両者の意見の相違は、到底出会うところはなかった。
 今日でいえば、家康が毛沢東ならば、片桐且元は自由主義経済のアメリカにあたる。
 農民的に家康は、全国的にはまだ食糧も衣料も不足だらけの事をよく知っている。事実、家康自身も倹約と称し、百姓ばかりに苦労はさせまいと、白米を食わずに麦飯を食っていた。
 そこへ通貨が氾濫したら、巨利を博して栄えるものは商人ばかりで、その他の武士農民は貧困生活を余儀なくされる・・・つまり、国内に資本主義の根がぐんぐん張り貧困の差が拡大されてゆくことを、家康は恐れているのだ。
 この問題は、家康の勤労第一主義の政治の方向性と、資本主義的な且元の考え方の相違から発している。


 そして遂に、「方広寺鐘銘事件」(※下記参照)により開戦は決定され、大阪討伐の命が発せられた。
 開戦時期は、まさに、伊達政宗の計画と符節を合わせている。。。


画像:方広寺 国家安康の梵鐘 重要文化財
京都市東山区



画像:国家安康と君臣豊楽の文字


画像:黄金の小分銅 日本銀行金融研究所 貨幣博物館所蔵

※日光廟(にっこうびょう):徳川家康をまつる東照宮と、徳川家光をまつる大猷院(だいゆういん)とをさす。

※方広寺鐘銘事件:家康の勧めで豊臣氏は方広寺を再建していた。問題とされたのは、その鐘にあった「国家安康」・「君臣豊楽・子孫殷昌」の部分。
「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむことと家康が非難。
片桐且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、家康は牢人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告した。



2010年10月23日土曜日

伊達政宗 記(41) 大阪の役8 冬の陣


 大阪冬の陣。
 東軍人数の総数は十九万四千余人。これに対して、大阪方は十一万九千六百余人と称し、難攻不落の大阪城塞に拠っての籠城戦で対応してゆくことになった。
 天下の覇権を掌中におさめている東軍では、どこまでも結束が大事になり、これに対抗しようとする西軍では、勝った場合の恩賞の約束が最大の問題になってくる。
 その大阪方では、長宗我部盛親は、土佐一国を与えられる約束で京からやって来たし、真田幸村は五十万石の恩賞を約束され、後藤基次、毛利勝永、仙石宗也、明石守重、京極備前、石川康長、その弟康勝、山川賢信、北川宣勝、御宿勘兵衛、塙直之、大谷吉治等々が、それぞれ十万石以上の大名待遇、あとは手柄次第というふれこみで大阪城へ乗り込んだ。
 むろん彼等は、関ヶ原の敗者にあたり、徳川家への復習に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者だった。

 その他に、秀頼が密使を送って東軍より味方に引入れようとした者は、伊達政宗のほかに、福島正則(広島)、前田利常(金沢)、島津家久(鹿児島)、浅野長晟(和歌山)、加藤嘉明(松山)、黒田長政(博多)等であったが、むろん誰も彼に味方した者はない。

 伊達政宗の兵数は一万八千余人。
 上杉景勝は五千余人、佐竹義宣は千五百余人に比べるとかなりの大動員となっている。
 これには、南蛮艦隊が、若しも支倉常長とフィリップ三世の面会が早まって、冬の陣のうちにスペイン軍が大阪湾に到着する事態を考慮したうえでの動員だった。南蛮艦隊を指揮しながら、もう一方では大阪方と徳川方へ当たらなければいけない。もし、そういうようなことになれば、何としてもそれだけの人数が必要になってくるのだ。

 戦は案のごとく、完全な包囲戦になっていった。
 大阪城近郊では、東軍の兵数に圧倒され、西軍は次第に市中の砦を捨てて籠城してゆく。
 ここまでは、むろん双方とも計算済みの戦。
 こうして完全に大阪城の包囲が終ると、家康は、各門口の前面に半永久的な陣地を築かせていった。

 「---戦をどこで終息させるか?」
 その思案もなくて開戦する者があったとすれば、それこそ戦を知らぬ者の暴走というべきだ。
 その意味では、家康の計算は、まことに至れり尽くせりだった。
 十二月一六日---。紅毛より輸入した大砲を城内へ撃ち込み、それが天守閣に命中し排煙と共に打崩していき、三弾目が命中した時には大阪城内の混乱は、もはや救いようのない極限状態を現出していた。
 凄まじい爆発音のあとから、泣き叫ぶ婦女子の声が八方に湧きあがり、腰を抜かした守備の雑兵が、そこかしこで奇声をあげて這い回っている。
 大砲は八弾でやんだ。
 それで充分な程、あたりはひどい土煙と悲鳴で占められ、何時城郭が火を噴きだすかわからない状態になっている。
 必要以上に壊したのでは、後の修繕費がかかり過ぎる。これで充分と踏んだのだろうが、ここにも家康の思案がゆき届いていると言ってよい。
 そしてすぐさま人を飛ばし、大阪方へ和議を持ち込んでゆく。そうして家康の介添えもあり、テキパキと講和は進んでいった。
 こうして大阪冬の陣は終わった。。。

 しかし、このまま本当に戦が終わってしまったのでは、政宗にとっては一大事。
 世の中がすっかり平和になったところへ、支倉常長の乗った軍艦が、大砲を撃ちながら大阪湾へ侵入して来たら、どうなるというのだ?
 
 ここで政宗は、家康へ大阪城の外壕を埋めてしまう妙案を提出してゆくのだ。
 そうなれば、仮に秀頼が大阪城を離れようとしない場合でも、外壕を埋めた裸城ならば、牢人共も切支丹信者も、誰も謀反など考えらるものではない。
 そうでもしなければ、大阪市民は安心して到底暮らせなどはしないのだ。
 家康は、外濠を埋めておけば、戦にならぬと踏んでいる。若し戦になったとしても、到底長く籠城出来ないので、秀忠の手でも充分鎮圧出来ると計算していた。
 ところが政宗はそうではない。別に豊臣家を潰さなければならないとは考えていなかったが、ここで秀頼に矛を納められては困るのだ。したがって、大人数でワイワイ騒ぎながら外濠ばかりか総濠を埋めにかからせ、秀頼はとにかく、大阪方の感情を強く刺激し、和議を無効に追い込みたいのだった。

 そもそもこの外濠埋めのことは、両軍の血判した書類の中には書かれていない。家康もそれ程重くは見ていなかったし、大阪方でも、外濠ぐらいならばと軽く考え、口約束で済ましていた程だった。
 むろん、徳川方では重臣等が政宗の思案には大賛成で、家康が引揚げると遮二無二外濠ばかりか総濠を埋めにかかってゆく。説き手が伊達政宗という巧者なのだから、藤堂高虎を始め、前田利常と一人も反対する者はいない。

 こうして、総濠埋めはぐんぐん進み、遂に大阪城は天守閣を残したのみとなった。
 裸城とはいえ、天守も城郭も忽然として建っている。大阪方に、戦う意志が無ければ、これで秀頼の面目も立派に立ってゆくのだから、このあたりが、最も微妙な、信と不信の大きな岐路だったといえる。。。


画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像



2010年10月22日金曜日

伊達政宗 記(42) 大阪の役9 夏の陣


 そもそも、大阪の役は避けられなかったのだろうか?
 そこには、豊臣秀頼の性格という、政宗もびっくりするほど異常な原因が含まれていた。

 何よりも秀頼は死を怖れない。出世したいという人間並みの願望もなければ、誰を愛したいという欲望もない。この時にはすでに側室の伊勢の局と呼ばれた"およね"に国松君という子が生まれ、これが可愛い盛りに育っていたのだが、その国松にさえかくべつの関心は示さない。
 これは、どのような手段をめぐらしても、歩一歩と地位の上昇をねらい、はげしい意欲で人心を掴み、断じて君臨しなければ納まらなかった豊臣秀吉の性格とは、雲泥の差だった。
 生まれた時から、あらゆる幸福が約束されていた。したがって幸福不感症という空前絶後の大超人が出来てしまっていたのだ。彼が現在関心を持っているのは、いわゆる世人の「不幸---」と呼ぶ、切羽詰まった人間の極限状態しかなかった。
 (---果たしてそうなったら、自分は何をするであろうか?)
 この場合の興味の中心は「---自分」の中の「---別の自分」でしかない。

 孤立した大阪城の牢人募集は、次第に露骨に進められていった。
 こうして、二度目の大阪征伐が決定された直後、政宗の元へ思いもしなかった連絡が届いた。
 今、南蛮国は紅毛国に破れ、世界最強を誇った艦隊も、既に大海の底へ沈んでしまっていたのだ。
 むろん政宗も、絶対にこのことが成功すると信じていたわけではない。
 万一成功すれば、こうなる筈と、冷静に書上げた一篇の物語ではあったが、そもそも初めから大きな一つの誤りを含んでいた。南蛮は紅毛より劣勢を強いられ出していたのだ。
 あの用心深い家康のこと、紅毛側より優勢の情報は得ていたのではないだろうか?何も知らずに外交路線を決定しゆく筈などないのではないか?
 そうなると、政宗ほどの男が、「家康に使用されていた」そう思うと、今まで自分を相手の対等以下には考えようとしなかっただけに、この羞恥は白日の下へ追い出されたモグラの様な、身を刻まれる程の絶望だったに違いない。
 何も彼も見通しの家康が、明日からも巧妙に自分を使いまくって勝ってゆく・・・それが嫌なら、今すぐ兵を返して、家康を襲うしかない。。。
 この場合の両者の感情は、織田信長と明智光秀によく似ている。
 光秀も、こんな感情で、いきなり本能寺を襲ってしまったのに違いない・・・。
 
 大阪夏の陣は、冬の陣とは打って変わった白兵戦となった。
 これは関ヶ原の合戦とは、その本質を異にした戦だった。
 関ヶ原は日本の地図を書き直す程の規模と意味を持っていた。しかし、今度の戦は、せいぜい豊臣家の六十万石の争奪に終わる戦。
 関ヶ原のおりには、日本中の大名が二分して戦った。それだけに勝者が敗者の所領を没収すれば、褒美の領地に事欠くことは全くない。しかし、今度は、秀頼以外は、何も持たない牢人大名。彼等が善戦して東軍を苦しめれば苦しめる程、褒美の足りなくなってくる幕府方にとって不利な戦。
 それだけに、家康は極力これを避けたかったに違いない。
 戦争という激しい浪費のあとで、領地という褒美がなければ必ず諸大名の不平が募るからだ。

 さすがに政宗は、知っていた。
 「---東軍が勝つに決まっている」
 そして勝ってしまうと、家康は、少なく見ても百五十万石ぐらいの領地は褒美として出さなければいけなくなる。
 豊臣家が六十万石とすると、およそ百万石程が不足になるが、それをいったい何処から蹴出す気でいるのか?
 その取潰しの第一候補へ、伊達政宗が上がってもおかしくはない。第一に大久保長安事件のこともあるだろうし、切支丹の跳梁である松平忠輝とは婿と舅の関係にあたる。
 ここで、豊臣家を潰してしまった家康を見限ったと宣伝し、切支丹を従えていっそ徳川家を潰すことも決して不可能ではないが、、、

 炎上してゆく大阪城の大天守を見ながら、政宗はそんなことを考えていたのかも知れない。。。


画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像


画像:大阪夏の陣図屏風・右隻 大阪城天守閣所蔵 重要文化財

※余談:屏風左隻には、徳川方の雑兵達が大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。
 また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られ殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は数千人に達したとされる。
 ある町人が残した記録「見しかよの物かたり」には
   男、女のへだてなく
   老ひたるも、みどりごも
   目の当たりにて刺し殺し
   あるいは親を失ひ子を捕られ
   夫婦の中も離ればなれに
   なりゆくことの哀れさ
   その数を知らず
 と、その悲惨さが語られている。


2010年10月21日木曜日

伊達政宗 記(43) 偃武(えんぶ)の装い


 家康に、伊達を滅ぼす気はなかった。

 世俗的に言えば、「---英雄、英雄を知る」とでも言うのだろうか。
 家康も政宗を認めていたし、政宗も又家康には適しかねると、極めて自然にわが叛骨を捨てざる得ない心境になりつつあった。
(---天下というものは、奪おうとして奪えるものではなかったのだ…)
 人間世界には、才略や器量を超えたところに、一つの運命が巨大な『徳の根』として深々と張りめぐらして活きている。
 永い間に無言で積まれた代々の徳が、その繁栄に関わり、その深さと大きさを見もせずに、天下だけ狙ってみても、それは一つの悪夢にしか過ぎないのではないだろうか?
 その意味では、信長の夢にも、秀吉の夢にも、まだまだ足りないものがあった。
 いや、政宗にしても同じこと。ここで家康を倒してゆかねばならない程、はっきりとした理由がない。理由がないところへ謀反をしてみたところで、天下を制することにはなりようがなかったのだ。
 政宗が、若し天下を求めるならば、全く無私の立場に戻って、民衆のために黙々と徳を積むより他にない。そして、それが大樹をなしたところで、初めて運命は彼の前に天下を広げて見せてゆく。
 さすがに、政宗はそれを悟った。

 政宗は、家康の江戸城を見上げてみる。
 天下一巨大な天守閣に、本丸・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上・北の丸とあり、周囲十六kmにおよぶ区画を本城とした大城郭。
 そういえば、この江戸は、市街も城も政宗と成長を競うように大きくなったのだ。
 家康がこの城に入った頃は、小田原役の直後であり草深い平城だった。
 それが今では、市街は大江戸、城も又、大阪城には及ばなかったものの、立派に征夷大将軍の居城へ成り上がっている。
 政宗には仙台城がやっとだった。
 今まではそれが忌々しく感じられたのだが、今では家康の徳の総決算に見えてくる。


 伊達政宗の眼は変わった。この世の見方が別になった。
 今までは、やはり戦国人の眼であり、功名を狙う眼であった。世間では、或は以前の政宗を讃えるかもしれない。その方が変化に富んでいて面白い。しかし、この面白い変化は大乗的に遊戯、跳梁(ちょうりょう)にしかすぎないのだ。

 かつて織田信長は戦うことに徹底した。戦って勝つ以外に戦国を終息させる道はない。そう信じて徹底的に「---天下布武」で押しとおした。
 そして、その当然の結果として、人生四十九年目に味方の反抗に倒れていった。
 秀吉は、信長よりも知能派だった。いや、より徹底した征服主義をふりかざして挑んだ人生だった。征服するためには、時に相手の肩も叩き、時に圧倒的な武力で攻めもした。
 恐らく、これが昨日までの伊達政宗に、いちばん酷似していたかもしれない。
 そして、それは朝鮮出兵までは、まことに見事だった。その自信が、征明を速断させた。
 ところが、世界は、そんなに甘くはなかった。その間に、秀吉は寿命を尽きることになり、その焦りの結果が、見苦しい秀頼への執着となった。
 その無理な執着を、家康は、人情として通してやろうとした。いや、信義を貫く人間の印として、世間から褒められようとした感じもある。
 ところが、これも天は許さなかった。そして、天の摂理が、それほど甘いものではないと悟った時に、初めて運命は、家康にほんとうの天下を渡したのだと言っていい。

 今、その天下の将軍は秀忠。
 政宗には、この律儀者が、たまらなく、聡明なものに見え出した。
(---この善人を助けて生きる。それでよい。)
 それは、政宗が初めて経験する「---知我」の大悟であったといえる。


 一方、家康は今、政務の一切を将軍秀忠に任せて、自分では三つのことに専念しだしている。
 一つは、一国一城制度のこと、その二は、慶長二十年の年号を、ここで『元和』と改元すること。
 その三は、改元と同時に武家諸法度を分かち、公家法度を制定しておこうとする、その研究だった。

 この公家法度は、尋常の覚悟で制定出来るものではない。
(---家康めが思い上がって、天皇にまで一々指図をしくさった!)
 これは日本国の歴史上で、傲慢無礼な逆臣の標本にもされ兼ねない、危険をその中に孕んでいた。。。


画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像




画像:江戸図屏風 歴史民族博物館所蔵



2010年10月20日水曜日

伊達政宗 記(44) 宇宙の真理


 ほんとうの皇室の尊厳とは何だろうか?
 政宗は改めて自分にそう問いかけてみたが、胸を叩いて答えられなかった。
 しかし、天上に輝く太陽が、万物に生命を恵んでいる。その太陽が生命の根源なのだと受取ることに躊躇は無かった。

 太陽があるゆえ、自分も生まれたのだし、生きている。自分という人間が、この世に実在する限り、人間の遠い祖先は天照大神(あまてらすおおみかみ)なのだとする哲学的な比喩を否定は出来ない。
 その天照大神から、わが朝廷の天皇は万世一系に続いている大きな生命帯の中心なのだという訓えは、信長に信じられ、秀吉に受継がれ、更に宇宙の神秘な現実として家康に畏れ継がれていた。
 それなればこそ、政宗も、仙台築城のおりには、まっ先に帝座の間を設けた。
 太陽が無ければ人間も無い・・・その道理を踏まえて、人間の始祖を伊勢神宮にいつきまつり、三種の神器に叛くべからざる大自然の法則をこめて、万世一系を語り伝えたこの国のありようは、誰にも破れない悠久(ゆうきゅう)の理を含んでいる。
 自分は太陽の子であり、天照大神の子であり、更に天皇の子なのだと自覚出来るようになったら、それこそ大達人であり、真人であると言ってよい。
 家康にはすでにその悟りがあった。それゆえに家康は、生かすもの(太陽)こそが、永遠に生かされるのだと知って日々の行為を慎んでいる。

 ではこの頃の朝廷はどうなっていたであろうか?
 何分にも百二十年にわたる戦乱続きで、公卿(くぎょう)公家の殆どが都落ちしてしまい、縁故を辿って各地に生きのびるのがようやくで、数千年にわたる、皇室の教養や理想はその蔭に霞んでしまっていた。
 どんなに高い理想も伝統も、生活の安定がなければ発揚のしようもない。
 幸い信長の献じた供御(天皇の生活費)で辛うじて生きのび、秀吉の誠意を加えて、ようやく朝臣たちもボツボツ京都へ戻ることになったところだった。
 家康がどのように道義立国をめざしてみても、国の中心である廷臣たちが、理想も伝統も忘れたままでは、民心のまとまりようは無かった。
 そこで百二十年にわたる戦乱で、殆ど忘却されてしまっている、この国の伝統を先ずきびしく甦らせなければならなかった。
 簡単に言えば、典礼も作法も習得せずに育った朝臣たちに、よるべき道を示すのが治国の根本と気付いたのだ。


 それにしても、大阪へ征く時の政宗と、今の政宗では別人のようになってしまった。
 ぐんと大人にもなったようにも思えるが、その実、目算を誤って負け癖が付いたのだとも言えそうだった。
 いや、今更、勝敗や事の成否にこだわる域から、大きく抜け出し得たのだから、やはりこれは成長したのに違いない。そう自分に言い聞かせもした。
 すると、急に白石城にある片倉小十郎(景綱・かげつな)の病気がしきりに気になりだした。
 やはり片倉景綱(※下記参照)は、政宗にとって得難い真実の名臣だった。
 景綱は元和元年五十九歳で亡くなるが、その死が政宗の群を抜いた叛骨をおさめさせ、家康と協力する気にさせたのだ・・・と見る者は少なくない。しかし、それはどこまでも第三者の眼であって、政宗の真実の姿とは言いがたい。
 政宗は、どこ迄も強烈な個性をもって自分を押し通そうとする独裁者型の巨人で、決して周囲の条件によっておのれを変えるような者ではなかったからだ。


 公家法度を見ると、政宗には初めて家康の描いていた夢のスケールがわかって来た。
 (家康は途方もないスケールの持ち主だ。)
 明け暮れ国土を盗みあった戦国の武将の中では、ケタ違いと言ってよい。豊臣太閤と比較しても筑波山と富士山程の相違がある。
 (到底自分などは征夷大将軍の器では無かったのだ、、、)
 政宗は公家法度の書き出しである第一条を口の中で呟き返してみる。
 「・・倭朝、天神地神十二代、天照大神宮、国政明白にして神代より伝え給う処の三種の神器は、天子四海万民撫育のためなり」
 この場合の三種の神器は、皇位の事。わが日の本の皇位は何のためにあるか?これをあっさりと「---四海万民撫育のためなり!」と、割切って考えている。
 つまり、皇位は、世界中の民を育てる為にある太陽であると断定しているのだ。
 これで太陽が生命の根元で在るという大自然の姿から、その化身である天照大神と、その子孫であり万世一系を称する天皇の本質までも一度にズバリと言い切っている。
 これを意地悪く逆説すれば「天皇は、我を忘れて民を愛撫育成するのでなければ、天皇ではない」とする断定になってゆく。
 素直に読めば「それゆえ天皇を断じて侵してはならない」という訓えにもなり、同時に又「---民の為に天皇はある」という徹底した民主主義にもなってくる。

 政宗は、一度嘆息して、次のくだりを暗誦(あんしょう)してみる。
 「---神国の例するところは天魂なり。皇帝は地魂なり。天魂地魂は月日なり。日月行動の心は天子叡心を守り給う根本なり---」

 かつて政宗は、豊臣太閤こそ素晴らしい規模の大英才だと思っていた。それに比べれば、家康などはどこまでも地味な実務型の人間に過ぎないと・・・。
 ところが、それは逆だった。秀吉が高麗や大明国を睨んでいる時に、家康はひっそりと宇宙を見つめていた。
 秀吉が天皇を、北京で大明国に君臨させたいと希っている時に、家康は天皇を、日月行動の心を叡心(大御こころ)とした、大自然の地魂に成るべきものと考えていた。
 天皇とは太陽のように、何の反対給付をのぞまず、無償の愛を永遠に万物にそそぐべきもの---と断定しているのだから、宮廷側にとっては空恐ろしいほどの訓戒となってゆく。極言すれば、皇位を踏む者はただの愛情を行使する通常の人間であってはならない。それでは日本は神国であり得ないし、大自然の心に叶って、太陽のある限り生き続ける天壌無窮、万世一系の生命は保てないぞと喝破している---。


 この家康の公家法度は、宇宙の真理を包込むほどのスケールを持っているのだから、政宗が家康に協力してゆくのも、そんな政宗を家康が認めているのも、極めて自然な心境だったと言ってよかった。。。



※片倉景綱:政宗初陣より共に参陣し、軍師役を長年にわたって務めている。
 伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれ、その知才は秀吉にも高く評価されており、奥州仕置の際、秀吉は景綱を直臣に迎えようとした程だったが、政宗への忠義を選んで辞退。
 仙台藩設立後は、一国一城令(※下記参照)が敷かれる中、特例として白石城が残されその城主となり、片倉家は明治まで十一代にわたって白石の地を治め続けた。
 伊達家忠臣の鑑と称され、以後、片倉の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗っている。

※一国一城令:一国につき一つの城を残してその他の城はすべて廃城にするというもの。
 特に幕府に対して功績があった者は例外的に廃城の対象外とされ(伊達3城)、仙台藩ではさらに要害などと称して実質上の城を多数維持し続けた。(伊達21要害)



2010年10月19日火曜日

伊達政宗 記(45) 一つ目達磨(だるま)


 支倉常長が、フィリップ三世の実力を知り、大きな失望を抱いてローマに渡り、ここで法王のポール五世に、政宗の書簡を捧呈(ほうてい)したのと同じ頃に、日本では片倉景綱が白石城(宮城)で亡くなっている。

 この時、政宗は領国にてそれを見送った。
 その少し後に「---家康病気」の知らせが、江戸留守居の伊達阿波から届いている。

 仙台を発った政宗の胸は、ともすれば又あやしい雲を呼んで波立ちそうであった。
 ようやく家康の天下を認めて、これに協力してゆくことに生甲斐を見出そうとしたとたんなのだ。
 (---家康も患うては、もうこれが死期になろう---)
 すでに七十五歳となっている。
 しかし、その家康が亡くなって、果して天下が穏やかに治まってゆくのかどうか?
 政宗の身辺からも、片倉が欠けたように、家康の身辺でも、すでに彼を助けて来た譜代の賢臣たちは老いすぎている。
 外様大名の中では伊達政宗と藤堂高虎。秀忠の腹心では土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)と酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)ぐらいのもので、他はぐんと重みが減じてゆく。
 したがって、ここで政宗に野心があれば、まだ天下はどうにも動きそうな気がしてならない。
 政宗の動き次第で、舟の重心がどちらへ傾くのか分からないのだ。
 (---いや、もう迷ってなどはいられない。天下安泰のおとぼけ達磨で通してゆくのだ---)

 政宗が騒ぐ血潮を押さえながら江戸へ着くと、江戸市内は再びはげしい動揺にさらされ出していた。
 「---伊達政宗がやってくる!」
 江戸へ着いたとたんに、町人までが乱を思い出すというのは何とした事か。
 政宗自身はすっかり「---おとぼけ」を気取っていても、世間から見れば何時も法衣の下に鎧の覗く、物騒な謀叛好きに見えるということではないか---。
 市民の眼にそう映る程のものが、旗本や譜代大名たちにそう見えない筈はない。自分は家康や秀忠を助ける気でも、周囲が警戒いっぱいでは何時どのような罠にかけらてもおかしくはない。


 元和二年四月十七日巳の刻(午前十時)に家康はみまかった。
 家康の意志をもってした最後の命令は、林道春を枕元に呼び寄せて、城内に集めてあった万巻の書「---駿府文庫」を、後人のために整理しておくようにということだった。それ以後に命令らしい意思表示の後はない。
 このあたりに、「---お拾い(秀頼)を頼む。お拾いを・・・」そう言い続けて息を引きとった秀吉と家康の、人間の差異がはっきりと出て来ている。
 と言って、一方が迷いぬく程わが子を愛し、一方は肉親に冷淡だったなどという批評は誤った見解にしか過ぎない。

 政宗は、この直後に秀忠より出府の命を受けている。
 それにしても、政宗の今度の出府は並々ならぬ重大な責任を持たされることになる。
 政宗が到着すると、秀忠はすぐさま上洛の用意にかかるに違いない。そして、政宗はその行列の露払いという名目で、内実は家康に代わる将軍の後見人なのだ。
 政宗が最も気にかけているのは、宮廷内の公卿たちの教養と身持ちであった。残念なことに、当時の公卿たちの姿勢はひどく乱れてしまっている。
 それだけに、最善の理想をどのように宮廷内に復活せしめてゆくかは、政宗にとって、自ら帝王になる程に気にかかることであった。
 そこに、秀忠というあの律儀者では、治まる問題も治まらず、体を壊してしまいかねないのだ。
 そこで政宗は「---公卿にも容赦なく、不都合はお叱りなされ」と相談を持ちかけてきた秀忠へ助言している。

 秀忠のこの元和三(一六一七)年の上洛中は、秀忠の性格からすれば異常なまでに威張って見せている。秀忠が武将大名に対して威を張ることこそ、即ち、衰微している朝廷に威信を加えるものだからだ。
 実力をもって天下に臨む将軍家が、実は朝廷にはうやうやしく臣礼を執って見せる。権威のありかは実力ではなくて、高く美しいこの国の理想なのだと実行で示さなければ、真理による理性の命脈は保てない。この事は公卿に対しても同様だった。
 それだけに公卿たちの中には、秀忠に反感を示す者も少なくなかった。
 しかし、将軍は天皇の執政なのだ。政略では土井利勝が辣腕(らつわん)を振るい、精神面では、伊達政宗がその支えに充分なっていた。
 秀忠は、その期待に応えるようにして、外国使臣に対しても、殊更多く伏見や二条城で接見している。
 オランダに渡海の朱印を授け、イギリスの使節への会見だけではなく、朝鮮信使をわざわざ大徳寺に館させておいて、これを伏見城に招いている。
 兎に角、一つの国を、秩序ある集団として造り上げてゆく苦労は並み大抵のものではなかった。

 この度の在京中に、政宗は京より呂宋(ルソン・フィリピン)へ向けて極秘で飛脚を送っている。
 これは、泰平の世の、伊達家安泰を決定付ける重大な意味をもっているのだが、この時の進むべき時代の方向性は、一体どこへ向かっていたのであろうか。。。


画像:日光東照宮




 徳川家康 辞世の句

 嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空

 (うれしいかな、最後かと目を閉じたが、また目が覚めた。この世で見る夢は夜明けの暁の空のようだ。さて、もう一眠りするとしようか。)


 徳川家康 遺訓(東照宮遺訓)

 人の一生は、
 重荷を負うて 遠き道を 行くが如し。
 急ぐべからず。
 不自由を 常と思えば 不足なし。
 心に望みおこらば 困窮したる時を思いだすべし。
 堪忍は 無事長久の基。(※)
 怒りは敵と思え。
 勝つことばかり知りて 負くることを知らざれば 害その身に至る。
 己を責めて 人を責むるな。
 及ばざるは 過ぎたるに 勝れり。(※※)

 ※:忍耐は、平穏無事が永く続く基礎である。
 ※※:度を超えて行き過ぎた者は、不足している者よりタチが悪い。



2010年10月18日月曜日

伊達政宗 記(46) 新時代の驕児(きょうじ)


 同じ人間の、求めに従って変わってゆく「---時代」ながら、その時代時代が要求してくるものは皮肉なまでに変わってくる。
 つい昨日まで、人間は、たくましく、強く、乱暴な加害者型、豪傑型でなければならなかった。それで無ければ戦国武者はついて来ないし尊敬も頼りもしなかった。
 ところが、いったん平和が根づいてくると、掌を返したように、好みも価値観も変わって来る。
 昨日までは振返りもされなかった武人の中の落伍者、遊芸人型の男たちが、細身の大小に華美な着流しで当世好みの的になる。
 江戸はまだそれほどでも無かったが、政宗が上京した際、その目には殊にこれが目立った。三条から四条へかけての河原にあふれる群衆の風俗など、色彩までが、すっかり変わっていたのだ。
 女たちも見違えるように派手になっていた。
 (太閤の朝鮮出兵がなければ、この泰平も20年早く訪れたに違いない、、、)
 政宗はまたニヤニヤと笑ってしまった。
 (政宗ほどの男が、50年もかかるとは、、、)


 この頃、福島正則は、土井利勝の参議推薦により、伊達政宗・藤堂高虎と同様の参議に推されていた。
 現在、福島正則には将軍家に対して弱みを三つもっている。その一つは、大阪の役のさい大阪城内へ密かに兵糧を送り続けていたこと。もう一つは舎弟の正守が大阪城へ入って戦っていたこと。それに、家中には、正則が江戸に留めおかれた戦の最中に、禁制の大船を建造して、これに兵と兵糧を満載し、そのまま大阪城へ乗り込もうを企てた重役どももあったのだ。
 その正則が、疑われもせずに参議になる。これはどういう意味を含んでいるのだろうか?
 政宗には、それが掌を指すように分かっていた。
 正則の重臣どもは、今度びの参議推薦で必ず広島城の改築に踏み切るだろう。
 現に伊達家でも、一族の成実が、地震にかこつけて、城郭の大改造を申し出てきたばかりなのだ---。
 その意味では、日本中の大きな城は、みなそれぞれに欠陥を持っている。家康の在世中は、何れも家康に遠慮して、家康の嫌う城造りに専念出来なかったゆえであった。
 それだけに、幕府の方で油断して、正則を参議にあげたとすれば、好機おく能わずで、まっ先に城郭の改造に手をつけるだろう。
 (---これが、土井利勝の狙い---)
 家康が亡くなれば、再び天下は乱れてゆく・・・客観的には、これは戦国以来の一つの常識であった。
 「---相手が家康ならば兎に角、その小倅の秀忠など!」
 福島正則ほどの男が怖れてたまるものかという肚を、まだ捨てずにいたらどうなってゆくだろうか?

 福島正則は、気性に一つ大きな特徴を持っている。関ヶ原の役の時に、その性癖がハッキリと出た。清洲の城にあった正則が、さすがに岐阜へ進みかねている時に、家康は大きな芝居を打った。
 すると正則はカーッとなって、すぐさまその日のうちに岐阜へ突っかけた。
 こうした性癖を世間では、「---快男児」と評してゆく。もっとも戦国時代には、政治権力などはミミズの戯言。一にも二にも腕力第一、実力で済んだ時代なのだ。しかし、それは何処までも戦国気質の一つで、城攻めには特攻をあらわしても、じっくりと腰を落着けての行政となれば身を破るもとになろう。
 (---果してあの性癖に対する反省が、正則にあったかどうか?)
 それが無かったとすれば、正則は依然として独り合点の士道にこだわる反省無用の我儘者となるのだ。
 (この我儘さの抜けない者は一代限り・・・)
 自分だけは、どんなに大きくなってみても、その栄光や幸福を子孫に伝えるものではないと政宗は思う。いや、もう少し広く例をとれば、武田信玄も織田信長もその分別が粗略であったのだ。

 なぜ、ここにきて生き残った戦国武将の最長老の席から福島正則を除外しようとする必要があるのだろうか?
 それは、今、何処よりも徳川将軍家が領地不足に悩んでいるのだ。
 大阪の役の後始末がまだ終わっておらず、褒美の領地をまだ宛てがいきれていない。更に、京へ舞い戻った公家衆へのあてがいなどで、まだまだ五十万石程が不足になっている。
 そして更に、秀忠の子を将軍家の子供と名乗らてゆくとすれば、又しても数十万石の封地を蹴出してゆかねばならない。その余裕が果して今日の日本にあるや否や・・・。

 この領地不足という問題は、考えれば考えるほど逃げ場のない問題を感じさせる。
 日本人という、たくましい生命力を持った人間の、野心や欲望の量に比べて、国土の広さが足りなすぎるのだ。
 豊臣太閤の時にもそれが、朝鮮出兵という大問題になっていったが、今でも又問題になってしまった。
 福島も加藤も、明智も石田も、秀頼も忠輝も、みな大々名で残していけるほど、日本の領土は広くはない。とすれば、事ある毎に器量に応じて、誰かを取潰してゆくより他に実際政治の手段はない。
 そのわかりきった領土不足を、どう処理してゆくかの問題は、家光になろうが、その子の代になろうが、宿命として末世末代まで日本の政治に付きまとうガンになろう。
 この癌も忘れて働けば侵略主義になり、覚えておれば野心を放棄して、ひたすらエネルギーを押えて慎む道義人になりきるより他にない。

 さすがに伊達政宗は知っている。
 (---土井利勝が、ひとり福島正則だけを狙っている筈は無い---)
 正則がおあつらえ通り城普請を始めない場合も考え、両天秤をかけて、伊達領を狙っているとしてもおかしくはないのだ。
 そうなると、やはりまだ戻って来ない支倉常長とソテロの一行に加えて、領内に次第に増えている旧教信者のことを睨まれているに違いない。
 「---軍艦三隻、早急に日本へ回航されたし」
 このフィリップ三世に宛てた軍事同盟交渉の密書が露顕してしまったのでは、広島城の築増などとは比較にならない叛逆事件へと発展してゆくことになる。


 福島正則は、参議にされて得々と広島城へ戻ると、早速城普請に取掛かった。
 念のためにと、正式に、修理の届けを出したのは翌元和四(一六一八)年の正月二十四日。
 こうして、土井利勝に取潰される口実を、そっくり揃えてしまい福島家は取潰しに遭うのだが、それはもう少し後のはなし、、、。

 無事に支倉常長が、再び仙台の土を踏んだのは、元和六(一六二〇)年の八月二十六日だった。
 政宗には、一つの気がかりがあった。
 何分にも長い旅であり過ぎた。慶長十八年から元和六年まで・・・数えてみれば七年間にわたっている。その間ソテロと共にあり、洗礼を受けたり、歓迎されたり、ローマ法王に面接したりしてあれば、常長自身、すっかり切支丹宗徒になりきっている場合も充分ありえるのだ。
 常長を一目見た政宗はハッとなったに違いない。
 (---やはり、信者になっている。)
 支倉常長は、エスパニア首都マドリットにて、洗礼を受け信者となって帰国していたのだった。。。



画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像



2010年10月17日日曜日

伊達政宗 記(47) 泰平の知恵


 江戸時代を通して、幕府によって取り潰された大名の数はおよそ二百三十にものぼる。その半分以上は、家康、秀忠、家光の三代に集中しており、三代だけで百三十一にも達する。
(外様大名82家、親藩・譜代大名49家)



 福島家(50万石)最上家(57万石)松平家(60万石)加藤家(51万石)と、このさき外様大名をはじめ幕府の大名取潰しが本格的に始まってゆく中で、俗に「伊達62万石」 といわれる、仙台藩の安泰を決定づけたのは、忠宗と将軍養女 振姫との婚儀であったことはいうまでもないが、その裏に、政宗独特の宗教感が存在していることも見逃してはならない。
 この婚儀が、外様大名の中で、伊達家だけが改易の風波を除けて通る防波堤になったとはいえ、それはどこまでも政宗の代だけであって、末代まで改易されない保証などはないからだ。


 政宗は、信仰のことでは、あまりに上手く家中から領民たちまで欺き過ぎていた。
 自分ばかりか、奥方も、側室もみな信者と思い込ませて布教を許した。そうしなければ誰よりも先ずソテロを騙し切れないという必要からで、戦国の謀略とすれば、さして異とするに足らない戦略戦術の一つの筈であった。
 それにしても、政宗はいささか戦国的な作戦が巧妙すぎた。
 当然時代が変わったので、この作戦そのものが、彼に向かって牙を磨くことにもなった。

 政宗の当時の苦心が、伊達の記録に詳しく書き残されている筈もなく、仏人レオン・パジエスの日本基督(キリスト)教史を典本にしたというギリヨンの「鮮血の遺書」にかなり詳しく書かれている。
 それによると、政宗が領内に禁令を出したのは、支倉常長が月ノ浦(宮城県石巻)へ帰りついた以後のことのように書かれているが、そんな筈はないと思う。
 その時にはすでに、常長が月ノ浦以外の他領に着いたのでは、身の安全は期しがたいことをよく知っている。政宗からルソンに連絡があったからで、その頃には、伊達領内ではとうに禁令は出されていたと考えられる。
 その禁令の内容について「鮮血の遺書」は、次のように記している。
 「--(前略)政宗は外国へ使節をおくりたるため嫌疑を蒙り、エスパニア帝国の援助を求めて、日本将軍を倒さんとする者なりと言われしかば、面目を改めんとて信者を迫害することに決し、領内へ三箇条の厳令を出せり。第一---将軍の厳禁を犯して切支丹となりし者は大罰なるにより、速やかに棄教すべし。さもなくば、富者は財産を没収し、貧者は死刑に処せられん。第二---切支丹を告発するものは報酬を与うべし。第三---宣教師たるものは棄教するにあらずば追放すべし」
 と書かれている。

 しかし、実際に政宗が仙台藩にて行った禁令とはいささか異なっているのではないだろうか?
 せいぜい、第一は、宣教師を暫く家に入れないこと。第二は、誰にも他人に切支丹の教えを勧めないこと。第三は、伊達が切支丹を見逃していることを、断じて世間に洩らさぬこと、、、。
 これが政宗の禁教に対する本心であったと思われる。
 心の底で信じる者は、誰もどう出来るものでもない。よって無理に止めはしないが、ただ暫くは、幕府に睨まれないよう遠慮するように、と。
 その故で、伊達領内に、多くのかくれ切支丹があったことも、支倉常長がもたらした法王よりの贈物その他が、幕府をはばかって、二世紀半後の明治維新まで領内に秘匿されてあったのは、今では世間周知のとおり。

 この頃から、政宗は、完全に二つの顔を持った端倪(たんげい)すべからざる巨人になっていた。三代将軍の家光が正式に参勤交代を制度として決めていったのは寛永十二(一六三五)年のことであったが、そのずっと以前から政宗はすでにそれを厳しく実行してみせていた。江戸にある時は、まことに洒脱な空とぼけた戦国生残りの元老だったが、領地へ来ると、その顔は一変していた。
 緻密なご仁政の領主として、まず真っ先に重臣たちを集めて懇々と宗教について語った。いや、宗教というよりも、人間そのものの持つ生命と、その生命を養ってゆく物質の不二一体の関係についてわかり易く語り聞かせていったのだ。

 伊勢神宮は、天照大神だけを祀っているものではない。生命の源の大神は内宮、その生命を養う食べ物を下さる豊受の神を外宮として併せ祀っている。
 人間は、生命だけでは生きられず、さりとて食糧だけでも生命の保全は期しがたい。天照大神と豊受の大神とが一つになったところに、天壌無窮に生き継ぐ人間の生活が成り立っている。
 「これは知恵だ。」というのが政宗の考えだ。
 大自然をじっと睨んで、幾千年、幾万年か考え続けてたどり着いた深く高い人間の知恵。しかし、その知恵の深さを解けないからといって、あわてて転宗することはない。思案と知恵をもってゆっくり考える。その心こそ神仏の持物であると。
 すでに教会や礼拝堂は壊されていた。しかし、各自の家庭の奥までは調べさせない。それゆえ、観音さまに十字を刻んで拝もうと、心で天帝を拝みながら念仏を唱えようと、それは勝手だ。考え方にせよ、産れる時は両親からとする"お伊勢さん"のありようを、よくよく思案のもとにして考えて見よと申し渡したのだ。

 この宗教感は、幼児から禅という、偶像否定の宗教に鍛えられた政宗なればこそ言い得ることであった。
 事実、このようにして、領主がかくれ念仏や、かくれ切支丹を暗に許した例は日本中に殆どない。それだけ政宗は新しくもあったし、深くもあったと言ってよい。
 当時、こうした態度は、生活経験の豊かな常識階級には深い共感を呼んでいった。
 この共感を踏まえて政治はすべきものというのが、家康を認めた後の政宗の生き方であり、悟りになった。



 この頃から、政宗は、領民にも身辺の重臣たちにも、
 「---人間は、この世へ客に出された旅人である」
 という実感をよく口にしてゆくようになった。
 「---人間というのは、永遠の命の壺の中から、生命をわけ持たされて、この世に客に出されてきた旅人なのだ。元来が客の身なれば、三度の食事が口に合わずとも、あまり不平は言わぬもの・・・」
 というのである。
 「---生命は永遠に繋がってゆくもの・・・」
 そう気付いてみると、自分はこの世へ、五十年か六十年かの期間を限られて、客に出されて来た旅人だったというのは、何という息苦しい人間の生涯を語り尽した言葉であろうか!
 しかも尚、代々の人間は、この世に生命の存ずるかぎり、永遠に自由を求めて走り続ける。
 それゆえ、自由は大切にしなければならないのだという実感が、この中にはかなり哀れな余韻をふくんで盛りこまれている。これを見るに、奔放にまで見えるこの男の生涯にさえ、それほど大した自由は無かったようだ。
 いや、この切ないほど真剣な実感があればこそ、政宗もついに家康のめざす「---泰平招来」に共鳴し、その中に自分を適応させてゆく気になったのだとも受け取れる。

 これが、伊達政宗という、あらゆる生命の危機をくぐりぬけてきた奇傑の、真正な発見であり、悟りであったに違いないだろう。。。


画像:仙台城址(青葉城址) 伊達政宗騎馬像


画像:短剣 クリス形剣 仙台市博物館所蔵 国宝
(慶長遣欧使節関係資料)

画像:十字架像 仙台市博物館 国宝
(慶長遣欧使節関係資料)



画像:祭服 仙台市博物館所蔵 国宝

(慶長遣欧使節関係資料)
※祭服:教会で位が高い僧が儀式の時に身につけるもので、中央の濃い茶色のビロード地にはアカンサスの花が刺しゅうされ、天使は描絵で表現されている。また、両脇の薄茶色のきれ地にはぼたん唐草が刺しゅうされ、裏地には全体的にもえぎ色の平絹が用いられている。