慶長十年という年は、日本の歴史上で特筆大書すべき重要な意味を、後世に語りかけてくる。
この年、朝鮮の使者が日本にやってきて、平和第一の国策が決定してゆくばかりでなく、豊臣氏滅亡のタネも又、この年にはっきり撒かれてしまっているのだ。
政宗が、家康の先駆として京へやってきて、先ず第一に驚いたのは、その前年、即ち慶長九年の八月、家康の手で挙行された豊国祭(ほうこくさい)の評判の素晴らしさだった。
家康は、千姫を秀頼へ嫁がせておいて、この翌九年の八月に、秀吉の七回忌を、この豊国祭という前代未聞の規模の臨時祭典で挙行させているのだ。
意地の悪い一説では、これも家康が、他日、豊臣家を滅ぼす人心収攬のため・・・などと脱線してゆくのだが、家康が、このような祭りをやって何の利益があるだろうか?
この豊国祭は、家康が、どのように律儀に、秀吉の霊を慰めようとしていたかが分かるだけ。
この年、朝鮮の使者が日本にやってきて、平和第一の国策が決定してゆくばかりでなく、豊臣氏滅亡のタネも又、この年にはっきり撒かれてしまっているのだ。
政宗が、家康の先駆として京へやってきて、先ず第一に驚いたのは、その前年、即ち慶長九年の八月、家康の手で挙行された豊国祭(ほうこくさい)の評判の素晴らしさだった。
家康は、千姫を秀頼へ嫁がせておいて、この翌九年の八月に、秀吉の七回忌を、この豊国祭という前代未聞の規模の臨時祭典で挙行させているのだ。
意地の悪い一説では、これも家康が、他日、豊臣家を滅ぼす人心収攬のため・・・などと脱線してゆくのだが、家康が、このような祭りをやって何の利益があるだろうか?
この豊国祭は、家康が、どのように律儀に、秀吉の霊を慰めようとしていたかが分かるだけ。
この臨時大祭の模様は、屏風絵と記録によって、又、日本にあった宣教師たちの本国への通信によって詳細に伝わっている。
仮装をした踊子五百人を繰出させて都大路を練り歩かせ、京の市民はこれを見物し都中が沸き立つような賑わいだった。
この賑わいを見た宣教師たちが、世界中でこのような平和な楽園は今の地上にはないであろうと、家康の政治と日本を讃えているのだ。
政宗は、まだ市民が忘れ得ないでいるこの祭礼の話を、秀吉に対する家康の律儀さもさることながら、日本の平和的開国を外国へ宣言する、一大デモンストレーションであったのだと政宗なりに受取っている。
そして、これで遂に豊臣家が、将軍家に三つの大きな情けの借りが出来たと睨むのだった。
まずは関ヶ原の折、女子供には無縁のことと豊臣家へは何の裁きもなく、二つ目は千姫の輿入れ、そして三つ目は今度の豊国祭。さらに家康は六十万石で豊臣家を残そうとまでしている。。。
もし、ここまでしておいて、今度の将軍交代の折に、秀頼が京都へ出向いて来なければ、家康の堪忍もここまで、、、となってゆくのではないだろうか?
この頃、大阪城の本丸では、秀頼の上洛をめぐって大荒れに荒れている最中だった。
織田有楽斎、加藤清正、浅野幸長、福島正則を加えた上洛派に対し、淀君等が一向に上洛させようとはしない有り様。
大阪の女たちは、まだ天下を豊臣家の私物と思い込み、家康父子は、秀頼の家老ぐらいにしか思っていない。
このままでは淀君が狂乱して、どのような騒ぎになるのかわからない。
そこで、一応上洛する予定のところ風邪のためにそれも不可能、とすることでまとめられたのだ。
政宗のもとへ、そう連絡が届いたとき、これが政宗の、豊臣家を見限る最後となる。
このままでは淀君が狂乱して、どのような騒ぎになるのかわからない。
そこで、一応上洛する予定のところ風邪のためにそれも不可能、とすることでまとめられたのだ。
政宗のもとへ、そう連絡が届いたとき、これが政宗の、豊臣家を見限る最後となる。
こうして予定のとおり、四月十六日の参内で、秀忠は正二位内大臣を兼ねる征夷大将軍となっていった。
政宗は、この日秀忠に従って参内し、二条城に戻ると新将軍に付添うように脇座して、続々と賀詞言上に参集する諸公家、諸大名の挨拶を受けていった。
政宗は、この頃より、将軍家との二重三重の婚約もあり、『天下の副将軍』と諸大名より呼ばれ出している。
政宗は、切支丹どもが大阪城に目をつけているという噂は耳にしていた。
とにかく、家康は、遠からず亡くなろう。
そうすれば、天下は将軍秀忠と淀の方の間ではげしく揺れていく。
大阪と江戸は又一戦・・・その時、もし自分が乗り出したら・・・
天主教信者と南蛮人との上に、もし自分がどっしりと座ったなら・・・
政宗は、まだ天下取りの野望を捨てず、ふたたび隻眼で睨み出すのだった。。。
政宗は、この頃より、将軍家との二重三重の婚約もあり、『天下の副将軍』と諸大名より呼ばれ出している。
政宗は、切支丹どもが大阪城に目をつけているという噂は耳にしていた。
とにかく、家康は、遠からず亡くなろう。
そうすれば、天下は将軍秀忠と淀の方の間ではげしく揺れていく。
大阪と江戸は又一戦・・・その時、もし自分が乗り出したら・・・
天主教信者と南蛮人との上に、もし自分がどっしりと座ったなら・・・
政宗は、まだ天下取りの野望を捨てず、ふたたび隻眼で睨み出すのだった。。。

豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)
徳川美術館所蔵 重要文化財
